「芸」と「藝」について

「芸」と「藝」について

「芸」は元々、草の名前の意味であったが、昭和21年(1946年)9月国語審議会の答申により、「藝」の新字体とされ、読みと意味が付け加えられた。

文筆家は手書きの原稿や下書きで「藝」の略字として「芸」と書いていたが、編集者や発行所は、校正段階で正字の「藝」に直していた。

ところが、「芸」と「藝」を纏めて統一すると、「植える」と「る」の正反対の意味が同居することになった。馬鹿げている!

ホント、当時の国語審議会って・・・
いや、今の文部科学省もか。「『くん』は使っちゃあ駄目とか・・・」「時間の3分は『さんぷん』は『さんふん』と言え」とか、本当に気が狂っている。

よって、本来は、統一しちゃあ駄目なんですよ。

拘りを持つ文筆家は、出版社や新聞社が常用漢字の制限をしてくるから、仕方なしに従っているが、自分の名前や社名など、許される範囲で抵抗している。「芸術」のときの「芸」は「藝」と書き区別したりする。
文芸春秋社などは『文藝春秋』と表記している。

1.元々の意味の「藝」

【音読】ゲイ
【訓読】う(える)、わざ

①わざ。技術。学問。知識。身につけた技能。

②植(う)える。草木を植える。種をまいて栽培する。

【熟語】文藝、園藝、藝術、藝能、曲藝、安藝あき(地名)

2.元々の意味の「芸」

【音読】ウン
【訓読】くさぎ(る)

①草の名前、ヘンルーダ。ミカン科の多年草。強いにおいがあり、
書物の虫食いを防ぐために用いられる。

②くさぎる。草を刈る。

【熟語】芸帙(ウンチツ)

『金色夜叉』の素人研究。その2。―単行本との比較―

金色夜叉こんじきやしゃ』は明治30年1月1日元旦から読売新聞に掲載された、尾崎紅葉おざきこうようの連載小説です。

前回は、当時の新聞を画像で紹介しました。

今回は、翌年(明治31年)に単行本化された書籍と、文字や文章を比較してみたいと思います。

 

まず、明治時代の新聞の『金色夜叉』の紙面を再掲します。

明治30年金色夜叉の紙面一部

文を抜き書きする予定だったのですが、出来ない。

なぜなら、旧字体のフォントがコンピューター、ウェブ上に無いからです。

JIS(日本工業規格)の失敗です。(高島俊男先生の説です。『漢字と日本人』)

ともあれ、画像でしかお見せ出来ない。

 

明治30年の読売新聞に掲載された第一話の一部と、後年出版された単行本(復刻版)と、異なる点を矢印と赤い丸、または、赤い四角で囲みました。

是非、見比べて下さい。

 

先ずは、読売新聞に掲載された第一話の一部。

 

 画像1の1.

金色夜叉第1頁その1 画像1の2.

 

次が、後年出版された『精選 名著復刻全集 近代文学館 金色夜叉(前編)』の画像です。(画像2)

 

精選復刻版「金色夜叉」外観 精選「金色夜叉」1頁 画像2の1.

復刻「金色夜叉」2頁 画像2の2.

精選「金色夜叉」3頁 画像2の3.

復刻版「金色夜叉」奥付 画像2の4.

 

丁寧に見て頂く必要はありません。

とにかく、明治時代の人たちの、毎朝楽しみにしていた、その息遣いを感じ取って頂ければ・・・

いいかなあ~、と、思うのです。

『金色夜叉』の素人研究。その1。―明治時代の新聞紙面―

金色夜叉こんじきやしゃ』は明治30年1月1日元旦から読売新聞に掲載された、尾崎紅葉おざきこうようの連載小説です。

読売新聞。明治30年元旦第1面 画像1.

当時の読売新聞。第1面に掲載された。

 

読売新聞(明治30年1月1日号)金色夜叉第1話
画像2. 当時の新聞の『金色夜叉』だけ抜き出した。

1日目(第1話)と2日目(第2話)は第1面に掲載された。3日目(第3話)は第3面に掲載されていました。

 

【眉雪の解説】

『金色夜叉』は、明治30年(1897年)元旦に、読売新聞で連載が始まった。

当時の新聞が画像1である。

現在の新聞の1ページの寸法は、縦545×横406㎜ですが、

明治30年(1897年)の読売新聞の1ページの寸法は、縦53×横37cmだったそうです。

僅か全6ページ。1ページ6段、1段22文字。

文字の大きさは、5号、縦3.5×横3.5㎜。

それをA3サイズ(縦420×横297㎜)に縮小コピーしたものを更に縮小してアップしました。

今でこそ読売新聞、朝日新聞は、全国区の大新聞ですが、明治時代ではどちらも二流でした。

それが、この『金色夜叉』の連載で読売新聞はかなり部数を伸ばしたそうです。

妬(やっか)んだのが朝日新聞。

二匹目の泥鰌を狙って、帝国大学(現・東京大学)から夏目漱石を引き抜きました。

まあ、引き抜いたと言うより、漱石は教師として不評だったんですね。

学生から突き上げを喰らってノイローゼ気味だった漱石は、友人の高浜虚子らに勧められて小説(『吾輩は猫である』など)を執筆したのが大当たり。

脚光を浴び始めた頃です。

因に尾崎紅葉、夏目漱石、正岡子規は同い年の帝大卒。

兎にも角にも、明治時代の人たちは、新聞を毎朝楽しみにしていた。

テレビのやインターネットの無い時代です。その息遣いを感じ取って頂ければ・・・

と、思い掲載しました。

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【蛇足】

当時の印刷は、活版印刷で、一文字一文字の活版(活字)の判子を選び組み合せて文章を作った。
「文選」「植字」と呼び、手作業です。(画像3と4)

 画像3.「文選」

 画像4.「植字」

外国と異なり日本の場合、漢字とひらがな、カタカナがある。勿論、英数字も扱う。
漢字も現在の常用漢字の約2000字ではなく、6000字以上を扱っていた。

さらに総ルビを振っていたのである。

ルビを振っていたのは、大衆を相手にしていた新聞の必要な利便性、要するにサービスだったのだ。
この手間たるや大変なものであり、高度な職人技でした。

加えて、当時の小説家は、結構当て字を用いたので、気が抜けなかった。

26文字しかない英語圏とは、作業量が、その4倍、否、5倍以上違うだろうことは、容易に想像できますよね。

現在、コンピュータが導入され、パソコン画面で簡単にできるようになったので、
英語圏との差は小さくなったでしょうが、恐らく、活版印刷時代の職人技は、世界一だったに違いない。

昭和21年(1946年)に告示された当用漢字表に因り、新聞社はルビを振らなくてよくなった。
漢字数も3分の1以下になり、大幅に植字の作業量が減った。

と言うより、国語審議会の漢字制限の方針に大いに賛同し、広告、推進していたのだ。

今から考えると、商業主義に魂を抜かれた大いなる過ちであった。
それから僅か20年後にコンピュータが導入されようなどとは、想像していなかったからだ。