「双竜の紫気斗間に逼る」とは

双竜の紫気斗間に逼る

【読み】そうりゅうの しき とかんに せまる

【意味】二匹の龍が放つ紫気が、天の川(獅子座の柄杓ひしゃくの辺り)に向って昇って行く様子。

【出典】『下谷叢話』岩波文庫 2000年9月14日初版 p26

松隠しょういんが兄・大沼竹渓ちくけいに送った手紙の中の一文「双竜ノ紫気ほとんド斗間ニ逼ル」。

 

【故事】「延平化龍」

双竜の紫気斗間に逼る

【『下谷叢話』で引用された比喩的意味】

竹渓は鷲津幽林わしづゆうりんの長男として生まれながら、わずか十歳で大沼家へ養子として家を出た。理由は不仲説が考えられる。ところが、実父・幽林が病床にあった晩年、竹渓は何度も実家を訪れている。

そして、父亡き後、竹渓は実弟・松隠をして幽林の詩稿を編輯へんしゅうせしめ、これを菊池五山に示して批評をうた。五山は幽林父子(幽林と竹渓)の略伝とその作二、三首をってこれを『五山堂詩話』に掲げた。当時五山に採録せられることは非常なる名誉であった。松隠は兄・竹渓から送られた手簡と『五山堂詩話』とを受取り、大変感激し、漢文の手紙を兄へ送った。

この手紙に前掲の「双竜ノ紫気殆ド斗間ニ逼ル」の一文がある。

この意味は二つある。

一つは、「地中に埋もれていた父上の素晴らしい詩稿しこう(=宝剣)を、兄さんが見事に発掘して『五山堂詩話』という天下の晴れ舞台に載せた。その結果、隠されていた宝の光(紫気)が天に届くほど眩しく輝き、世に知れ渡ることになった」と、兄の功績を宝剣の発見になぞらえて絶賛している。即ち、優れた才能は必ず開花する、という隠喩。

もう一つは、幼い兄と父は別れたが、「父上の遺されし偉大な学問と詩才の家業を、兄さんが見事に受け継ぎ、二人は終合しゅうごうした。」と、二人の和解を喜んでいる。即ち、雌雄は再会する(この場合は、幽林父子)という隠喩。

この二つの意味を「双竜の紫気」は表現しているのではないか、と、思う。

張華伝「延平化龍」の意味

張華伝「延平化龍」

晋書しんじょ張華ちょうか伝の「延平化龍えんぺいかりゅう」の故事をご存じだろうか?

李白りはく蘇軾そしょくも「双龍」「紫気」「双剣」「斗間」「豊城」などの語彙で引用しているが、この故事が何を表現しているのか、よく解らない。

色々と調べた結果、一つの意味ではないことが判った。
大きく分けて三つの意味または象徴に使われるている、と思われる。

【「延平化龍」の故事】

地中から掘り出された雌雄一対しゆういっついの名剣(龍泉りゅうせん太阿たいあ)が一度は離れ離れになるものの、最終的に「延平津えんぺいしん」という川で合流し、二匹の龍へと姿を変えて天に去っていくという神秘的な逸話。さらに、双剣は干将かんしょう莫耶ばくやの夫婦がそれぞれ造ったものなので、転じて恋愛的とも解釈される。

【「延平化龍」の逸話は何を表現しているのか?・・・三つ考えられる】

一つ目の意味「雌雄は再会する」または「あるべき一対は結合する」

この故事で最も強く表現されているのは、「離れ離れになっていた運命の二者が、紆余曲折うよきょくせつを経て最終的に結ばれる」 という象徴です。

元々一対もともといっつい夫婦剣めおとけんであったものが、張華ちょうか雷煥らいかんという別々の人物に所有されます。しかし、持ち主たちが亡くなった後、剣はまるで自らの意志を持っているかのように川へ飛び込み、合流して龍となりました。

ここから、文学の世界では「離散した夫婦や恋人、あるいは固い絆で結ばれた親友が、時を経て奇跡的な再会を果たすこと」の比喩として使われます。

二つ目の意味「優れた才能は必ず開花する(頭角を現すこと)」

チャイナにおいて「龍」は、天に昇る最高位の瑞獣ずいじゅうであり、「卓越した才能を持つ人物(英雄や俊才)」の象徴です。

剣が水にひそみ、龍となって天へ昇っていく姿は、「どれほど不遇な時代や環境に身を置いていても、本物の才能を持った人物はいずれ時期が来れば、その本領を発揮して世に頭角を現す」ということを表しています。
「臥龍(眠れる龍:諸葛亮孔明)」が天に昇るのと同じように、優れた人物がしかるべき場所で輝く運命にあることを示しています。

また、本物の才能を持った人物は、斗間に向って紫気を放っており、人徳叡智を併せ持つ者には、それが見える。居場所が判る。

三つ目の意味「神物は人間が永遠に所有できないという無常観」

もう一つの深い思想的背景として、「天が授けた神聖な宝(あるいは人智を超えた偉大な才能)は、人間が私欲で永遠に留め置くことはできない」という自然の摂理・天命を表している。

張華という当代随一の博識な政治家であっても、非業の死を遂げたように、人間の権力や命ははかない。
人間の都合で所有されていた宝剣が、最後は人間の手を離れて本来の龍という神聖な姿に戻っていく結末は、「俗世の執着を超越し、万物は最終的に自然や天の秩序へと還っていく」という、道教的・神秘主義的な世界観を反映している。

【まとめ】

この「延平化龍」の故事は、単なる空想ではなく、「運命的な絆(再会)」「才能の開花」「天命への回帰」という、人間の生き方やロマンを凝縮した美しい隠喩いんゆとして、後世の詩人たちに愛され、引用され続けた。

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【語彙説明】

〇斗間(とかん)・・・古代チャイナの天文学(星座)における星のグループ、二十八宿にじゅうはっしゅくの一つである「斗宿としゅく」の領域、または現代の星座でいうと「射手座」の北西側(柄杓ひしゃくの柄の先や、天の川の銀河中心付近)を指す。

〔別の説明1〕古代チャイナ星座では、この斗宿(射手座の柄杓の部分)の周辺にある星々や、その間(空間)を「斗間」と呼ぶ。

〔別の説明2〕チャイナの星座(星官)での位置は、二十八宿の「北方玄武七宿」の第一宿である「斗宿」の周辺を「斗間」と呼ぶ。

〔別の説明3〕北斗七星(おおぐま座)の形に似ていることから「南斗六星」とも呼ばれる六つの星の並びが有名で、この「南斗六星」の柄の部分やその周辺を「斗間」と呼ぶ。

星座全体

天の川と南斗六星

射手座と南斗六星

大熊座と北斗七星

九鼎大呂(きゅうていたいりょ)とは

九鼎大呂

【読み】きゅうてい‐たいりょ/きゅうてい‐たいろ

【意味】

「九鼎」は夏の禹王が九州から献上させた黄金で造った一基の鼎。

「大呂」は周王朝の太廟たいびょう(祖先を祀る大きな宗廟)に備えられていた大鐘。

どちらも非常に価値のある珍しい物。転じて、重要な地位や名声などのたとえ。

【出典】『史記』「平原君伝」

【眉雪の補記】

「九鼎」と「大呂」の本物は、現存していない。

始皇帝が周から奪おうとしたが、既に喪失していた。

「九鼎」の復元品が現在、上海博物館に在るだけだ。

「九鼎」については、前回、「鼎の軽重を問う」に書いた。

次に「大呂」とは、どんな物か。

文献では、大鐘となっているが、「大呂」の復元品は無い。

チャイナでは音楽のことを「律呂りつりょ」と呼ぶ。律(陽声)と、呂(陰声)の音からの成語。

従って、「大呂」は、音色を奏でる目的の大鐘のこととなる。

日本のお寺に在る吊り鐘を想像すれば良いのではないか、と思う。

「九鼎大呂」の大呂

大呂の「呂」は律呂の「呂」のこと

「鼎の軽重を問う」とは

鼎の軽重を問う

【読み】かなえの けいちょうを とう

【意味】

「鼎」とは、古代チャイナで、三本足と二つの耳の付いた青銅製の煮炊きに使う釜のこと。

料理だけでなく、表彰の贈呈物としても用いられた。

また、大きな鼎は、釜茹かまゆでの刑にも利用された。

チャイナの歴史を知る上で必須の物の一つだ。

九鼎の復元品
註:九鼎の本物は現存していない。復元品が上海博物館に蔵されている。

しゅうには代々受け継がれた鼎がある。この重さを、荘王そうおうたずねたのである。

さて、どう言う真意か?

【由来】

今回の場合の「鼎」は九鼎きゅうてい」のこと。

古代王朝の建国の祖であり、偉大な英雄のが、九つの州から献上された黄金を用いて一基の鼎を鋳造ちゅうぞうしたもの。

以来、鼎は一基だが「九鼎」と称された。やがて天子の権力と王朝の正当性を象徴する至宝しほうとして、いんしゅうの三時代にわたって継承され、その所有者が天子とされた。

註:九鼎は、九州から献上された黄金で造った一基の鼎とする説と、九基の鼎とする説とがある。大小や重さが異なる九基だと必ず品評が生じ、九州間でいさかいが起こる可能性が高い。賢明な禹がそんなことをする筈がない。また、九基だと今回の故事は成立しない。前説が正しいのではないか、と思う。

【真意】

王権や権威の象徴である「鼎」。

その「重さを尋ねる」とは二つの意図が想像される。

「お前に相応ふさわしい実力があるか?」

「俺の方が所有者として相応しいんじゃないか?」

と、「お前の権威は失墜した、俺に渡せ」と迫る意図が一つ。

あるいは、

「古ぼけた鼎を持っていると聞いたが、どれ位の大きさだ?」

「どれ程の物か知らんが、それより豪華な鼎を俺は作れるぞ」

と、「お前のものより豪華な鼎を作るぞ」と通告する意図がもう一つ。

どちらにしても、地位を奪う姿勢を示しているのだが、荘王は、後者の意図であろう。

【眉雪の補説】

「鼎の重さ」だけでなく「大きさ」も訊ねている。これは軍事力と経済力を訊ねているのである。

謂わば、初対面の相手に財布の中身を開帳しろと迫る無礼な行為だ。

「俺の財布の方が間違いなく札束が多く入っているぞ」の自信である。

くどいかもしれないが、現代風にたとえる。

中東の二人の国王が対面した。

「お前のその古ぼけた指輪のダイヤは、何カラットだ?」と問う。

もし大きなダイヤの場合、

「えっ!20カラット?それじゃあ、お前の細い指には重過ぎる。似合にあわんな。俺の太い指なら似合う」

と、のたまう。

反対に、軽い小さなダイヤの場合、

「えっ!3カラット?小さいなあ。それでも国王がめる指輪か?俺ならもっと大きなダイヤが買えるぞ」

と、どちらにしても見下している。

と、まあ、こんな感じの対話になるか。

アラブの王が指輪のダイヤを競う

この男はダイヤの大きさや輝きにしか価値を見出していない。

古ぼけたダイヤの歴史や伝統、文化と言う価値が理解できないのだ。

【故事】

荘王そうおうは、自ら出征し、天下統一をすべく、湖北のようを滅ぼし、そうった。翌年には、洛水東辺らくすいとうへん陸渾りくこんじゅうち、ついに洛陽らくように至り、しゅうの国都の郊外で観兵式かんぺいしきをやって、大いに武威ぶいを示した。

周の定王ていおうは、大夫たいふ王孫満おうそんまんを慰労を兼ねて荘王につかわした。

その場面でのことである。

荘王は、王孫満に、周の「九鼎きゅうてい」の重さを尋ねた。

要するに、「今世こんせいは楚の天下、俺のものだ。周ではない。だからその象徴である九鼎より大きな鼎を俺が作っても、構わないな」と暗に迫ったのだ。

この無礼に対して、王孫満いわく、

「天子の威厳は鼎の軽重にあるのではなく、徳にあります」と。

訊ねた荘王は、無言できびすを返した。

【出典】

『春秋左氏伝』宣公三年

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【原文】

楚子伐陸渾之戎、遂至于雒、觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉

【読み下し文】

楚子そし陸渾りくこんじゅうち、ついらくいたり、兵をしゅうさかいしめす。
定王ていおう王孫満おうそんまんをして楚子そしねぎらわしむ。楚子、かなえ大小軽重だいしょうけいちょうを問う。

【語彙説明】

楚子(そし)・・・楚の荘王。
陸渾(りくこん)・・・地名。河南省陸渾県。
戎(じゅう)・・・異民族の蔑称。
雒(らく)・・・洛水らくすいという川の名。
疆(さかい)・・・国境。
観(しめ)す・・・威力を示す。
定王(ていおう)・・・周の天子。
王孫満(おうまんそん)・・・周の大夫たいふ

【参照PDF】

「鼎の軽重を問う」漢文、読み下し文と解説

出典:『新釈漢文大系』「史記六」「楚世家第十」

子嬰の諫言を無視した愚帝・胡亥

チャイナの始皇帝が崩御して、二世皇帝・胡亥こがいが即位した。

胡亥は、幼い頃から教育係だった宦官・趙高ちょうこう傀儡かいらいだった。

趙高は、前皇帝の腹心の将軍や高官を悉く粛清する様、胡亥に吹き込んだ。

その成り行きを見ていた甥の子嬰しえいは、胡亥に諫言かんげんした。

「いけません。かつて、趙王遷は良将の李牧を殺して顔聚を用い、燕王喜は荊軻の計略を用いて秦との盟約に背き、斉王建(田建)は代々の忠臣を殺して后勝の意見を用いました。この三人の君主は、皆、古来のやり方を変えて、国を失い、
災いはその身まで及んだのです。蒙氏(蒙恬・蒙毅)は秦の大臣であり忠臣(謀士)であります。それなのに、主(胡亥)が一朝にして彼らを捨て去ろうと望んでおられるのであれば、私はよろしくないと考えております。私は、『思慮が足りないものは国を治めることができず、独りよがりなものは君主を保つことができない』という言葉を聞いております。
忠臣を誅殺し、節操が無い人物(趙高のこと)を取り立てれば、朝廷のうちでは群臣たちがお互いを信じることができなくなり、外地では戦士たちの心が秦王朝から離れてしまいます。」

そして、やがて我が国(秦)は亡びるでしょう、と結んだ。

しかし、胡亥は聞き入れず、大将軍・蒙恬もうてんと軍師・蒙毅もうきを亡き者にした。

当然ながら、国軍は弱体化し、他国(項羽など)に攻められ防ぎ切れなくなった。

そうなって、胡亥は趙高の責任を追及したが、なんと、趙高に殺されてしまった。

ねえ~、愚かですねえ~

チャイナ史上、胡亥は一番愚かな皇帝と称されています。

しかし、この記録を塗り替える、更に阿呆な独裁者が、今の時代に居ます。

はい!ご存知、習近平です!

あははは

習近平は、昨年から今年1月にかけて、中央軍事委員会の7名うち、5名を解任した。

理由は、汚職や軍事機密漏洩ですが、これは上辺の名目で、真意は、自分の意に染まぬから。

ねえ!

ソックリでしょう!趙高と!

歴史を勉強しなかったんですかねえ~

本当に信じられないくらい、愚かですね。

チャイナは昔からヤクザ国家ですから、一度、崩壊して、まともな政治家の出現を待つしかありませんね。

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【子嬰の諫言 原文と読み下し文と通釈】

史記「蒙恬列伝」 子嬰の胡亥への諫言PDF

男子三日会わざれば刮目して見よ

男子三日会わざれば刮目して見よ

【読み】だんし みっか あわざれば かつもくして みよ

【意味】日々鍛錬する人が居れば、その人は三日も経つと見違える程成長しているものだ。

【原文】士別三日、即更刮目相待

【読み下し文】「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」

【読み】し わかれて みっかなれば すなわち さらに かつもくして あたいすべし

【出典】『三国志演義』

【語源】
三国志の三国の一国、呉の国に、呂蒙という勇猛な武将がいた。
呂蒙は、その無鉄砲とも言える勇猛さで、呉の国はおろか他の二国、魏や蜀にもその名が轟いていた。
その一方呂蒙は無学だったので、君主の孫権が少しは学問を学び、人間の幅を広げるよう呂蒙に諭した。
それから時が流れて、呉の国有数の知将魯粛が、前線司令官として赴任する途中に呂蒙を訪ねた。
呂蒙は、魯粛の赴任先の正面に、当時中国で最強と言われた蜀の関羽将軍が指揮官として居ると聞いて、
関羽の性格を分析し、適切な献策をした。
呂蒙は学問に励み、いつしか勇に智が伴う武将になっていたのだ。
武骨な呂蒙しか知らない魯粛は驚き、
「いつまでも、呉の城下を走り回っていた蒙ちゃんと言う訳ではないなぁ(復た呉下の阿蒙にあらず)」
と笑ったところ、呂蒙は、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と反論した。

【人物略歴】

〇呂蒙(りょ もう)・・・178年~219年は、中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。
〇魯粛(ろ しゅく)・・・172年~217年は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子敬(しけい)。袁術・孫権に仕えた。赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜と共に開戦を主張した。

矉ニ效フ(ひんにならふ)

矉ニ效フ

【読み】ひん に なら ふ 〔口語:ひんにならう〕

效矉

【音読み】こうひん
【訓読み】ひんにならう

【意味】

古、越の美女西施が胸の痛のために顔をしかめたのを見て、其の里の醜婦みな之にまねて矉したので、里人が驚いて逃げ去つたといふ故事。
是非善悪を考へず強ひて他のまねをする喩。

〔荘子、天運〕西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里、
其里之富人見之、堅閉門而不出貧人見之、挈妻子而去之走、彼知美矉而不知矉
之所以美。

〔李白、效古詩〕蜂眉不可妬、況乃效其矉。

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店

縦書きで見る『大漢和辞典』表記の「效矉」PDF

【他の辞書の解説】

善し悪しも考えずに、やたらに人のまねをする。また、他人にならって物事をするのを謙遜していう言葉。《「荘子」天運》

【類義語】顰に倣う(ひそみにならう)

四矢反セズ(ししはんセズ)

四矢反セズ

【読み】ししはんせず

【意味】『詩経』斉風「猗嗟」の句に基づく表現で、反は矢が反復して同じ場所に当たること。

【文例】

「先生射ヲ善クシ、四矢反セズトイヘドモイマダカツテまとヲ出デズ。」

〔意訳〕「先生は(矢を)射るのが上手く、四本の矢が同じ所に当たる程ではないが、(直径約36㎝の)的を外すことはない。」

『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 15頁 14行目

意味は文庫本の「注」語彙説明(260頁)を引用。解説者は成瀬哲生なるせてつお教授(山科大学)。

註:図書館で数種の辞書字典に当ったが見つからなかったので、文庫本の解説を引用させて頂いた。

【出典】

『詩経』斉風「猗嗟いさ」より一部抜粋(『新釈漢文大系』を参照)

〔原文〕

四矢反兮 以禦亂兮

〔読み下し文〕

四矢反ししかへる もつらんふせ

〔現代口語文〕

四矢はみごとに重なる。国の乱れを禦ぐに足る頼もしい人よ。

〔意味〕

「四矢」は、射儀に用いる四本の矢の意(毛伝・集伝)。

「反」は、四本の矢が皆同じところにかへるの意、つまり四矢が重なり合って的中することをいう。

毛伝鄭箋の「反は復るなり。礼射は三たびして止む。射る毎に四矢、皆其の故処を得。此を之れ復と謂ふ。射は必ず四矢とは、其の能く四方の乱を禦ぐに象る」、屈万里の「反は復なり。四矢皆重複して一処より出づるを謂ふ」による。

林義光は的にたった矢をばっして、また射る、これを四回くり返しても四矢がすべて同じところにたるとする。

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縦書きのPDFで読むなら → 詩経「斉風」猗嗟

枇杷と焼き肴一時に食うべからず

枇杷と焼き肴一時に食うべからず/枇杷と焼き魚を一時に食うべからず

【読み】びわとやきざかな いちじにくうべからず

【意味】悪い食い合せの一つ。

註:二つの文は、「肴」と「魚」が異なる。ともに「さかな」と読む。

枇杷と焼き肴