月+羅の漢字

月+羅の漢字 ら(ろばの下腹の肉) (←JPEG画像です。UNIコードに無いので自家製です♪)

【読み】ら

【意味】ろばの下腹の肉。

〔集韻〕〇(ら)、驢腹下肉。

 

【熟語】らだつ (←JPEG画像です。UNIコードに無いので自家製です♪)

「(月+羅の漢字)」と「脱」で「らだつ」

【読み】らだつ

【意味】攞脱は、抜け出ること。(解説の成瀬哲生氏は、「攞」も同じ意味としている。)

【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 37頁 6行目

「こゝに来遊するは一日世塵せじん〇脱して園林の幽趣をめづるなれば、・・・」

意味は文庫本の「注」語彙説明(264頁)を引用。

麟經/麟経(りんけい)

麟經/麟経

【読み】りんけい

【意味】春秋をいふ。春秋は西狩獲麟の一句に終るからいふ。麟史。

〔獨醒雑志〕蔡京當國、春秋之學、蕭子荊謂馮澥曰、蔡氏廢麟經、忘尊王之義矣、是将爲宋王莽。
〔馬祖常、都門一百韻用韓文公曾合聯句韻詩〕羣儒修麟經、諸将宣豹略。
〔故事成語考、文事〕孔子作春秋、因獲麟而絶筆、故曰麟經。
〔枉預、春秋左氏經傳集解序〕麟鳳五靈、王者之嘉瑞也、今麟出非其時、虚其應而失其歸、此聖人所以爲感也、絶筆於猥麟之一句者所感而起、固所以爲終也。

麟経
Screenshot

【註】春秋とは。

『春秋』(しゅんじゅう)は、古代中国東周時代の前半(=春秋時代)の歴史を記した、編年体の歴史書。
一方で、儒教においては単なる歴史書ではなく、孔子が制作に関与した思想書であるとされ、儒教経典(五経または六経)の一つ『春秋経』として重視される。
『春秋』が読まれる際は必ず、三つの伝承流派による注釈「春秋三伝」のいずれかとともに読まれる。
『春秋』は、春秋学と呼ばれる学問領域を形成するほどに、伝統的に議論の的になってきた。

『春秋』が扱う年代であることから、「春秋時代」という名称が生まれた。
儒教においては、『春秋』は孔子によって制作された、または原書に孔子が手を加えたとされる。
但し、原書の『春秋』は散逸している為、孔子がどこに手を加えて経書の『春秋』としたのか、不明。

『春秋』の内容は、王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、および災異説にもとづく日食・地震・洪水・蝗害といった災害記事が主たる内容で、その体裁は、年月日ごとに淡々と書かれた年表あるいは官報のような体裁である(編年体)。そのような淡々とした記述の背後に、孔子の思想が隠されているとされる(春秋学)。

記事にされる出来事は魯国での出来事を中心としており、紀年法も魯国の君主の在位年が用いられている。扱われる時代は、上は魯の隠公元年(紀元前722年)から、下は哀公十四年(紀元前481年の「獲麟」と呼ばれる出来事)までの242年間にわたる。

『春秋』は、「年・時(季節)・月・日 – 記事」という体裁をとっている(編年体)。

 

【参考】「編年体」と「紀伝体」

「編年体」(へんねんたい)とは、歴史の記述法の一つ。起こった出来事を年代順に記してゆく方法を指す。

「紀伝体」(きでんたい)とは、歴史の記述法の一つ。個人や一つの国に関しての情報をまとめて記述する。中国の正史は全て紀伝体である。
紀伝体は、本紀、列伝、志、修史詔、四夷、国語解から成る。
「紀伝体」の名称は、このうち上位に位置づけられた2項目、「本紀」と「列伝」に由来する。

本紀(ほんぎ)・・・皇帝や王などの支配者に関した出来事を年毎に記述する。世家(せいか)諸侯に関する記述。
列伝(れつでん)・・・個々の人物の伝記。
志(し)・・・天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。表(ひょう)各種の年表や月表。載記(さいき)各地に割拠した自立諸勢力の記述。
修史詔(しゅうし しょう)・・・その歴史書が奉勅公撰であることを公に示すために、編纂を命じた詔勅の写しを付録したもの(『晋書』など)。
四夷(しい)・・・列伝から異民族出身の人物に関する記述を独立させたもの(『晋書』など)。『新五代史』では契丹(遼)がこれに含まれる。
国語解(こくごかい)・・・異民族王朝の場合、彼らに固有の民族語が頻出するため、特にその解説を添えたもの(『遼史』『金史』など)。

臭ヲ逐フ(しゅうヲおフ)

臭ヲ逐フ

【読み】しゆう を お ふ 〔口語:しゅうをおう〕

【意味】(『大漢和辞典』より)

くさいものをおふ。嗜好の偏った喩。

〔呂覽、遇合〕人有大臭者、其親戚兄弟妻妾知識無能與居者、自苦而居海上、海上人有悦其臭者、晝夜隨而不能去。
〔曹植、與楊徳祖書〕蘭苣蓀蕙之芳、衆人所好、而海畔有逐臭之夫。

【熟語】逐臭(ちくしゅう)

逐臭(ちくしゅう)

霿淞(ぼうしょう)

霿淞

霿淞 (←JPEG画像です。自家製で字体が異なりますがご容赦を♪)

【読み】ぼうしょう/むしょう

【意味】齊(斉)の地で一種の霜をいふ。霧淞。
〔曾鞏、冬夜即事詩〕月澹千門霿淞寒。〔注〕齊寒甚、夜気如霧、凝於水上、旦起視之如雪、日出飄満階庭、尤爲可愛、齊人謂之霜淞、諺曰、霿淞重霜淞、窮漢置飯甕、以爲豊年之兆。

【註】斉(せい)とは。

古代中国・春秋戦国時代の有力国家の一つ。周代の文王や武王の軍事・経済顧問であった太公望(呂尚)が封じた国。春秋時代には桓公が管仲や鮑叔を補佐役として国を豊かにし、桓公は春秋の五覇と呼ばれた。その後、家臣の田氏に乗っ取られ、田斉となった。

【参考 同音異義語】

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【読み】ぼうしょう/むしょう

【意味】川の名。臨潢の西南。金の世宗の時、遼人伊喇鄂斡、帝を稱し、金将默音、之を此處に敗る。満洲熱河省赤峯縣の東。

矉ニ效フ(ひんにならふ)

矉ニ效フ

【読み】ひん に なら ふ 〔口語:ひんにならう〕

【意味】(『大漢和辞典』より)

古、越の美女西施が胸の痛のために顔をしかめたのを見て、其の里の醜婦みな之にまねて矉したので、里人が驚いて逃げ去つたといふ故事。
是非善悪を考へず強ひて他のまねをする喩。

〔荘子、天運〕西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里、
其里之富人見之、堅閉門而不出貧人見之、挈妻子而去之走、彼知美矉而不知矉
之所以美。

〔李白、效古詩〕蜂眉不可妬、況乃效其矉。

【他の辞書の解説】

善し悪しも考えずに、やたらに人のまねをする。また、他人にならって物事をするのを謙遜していう言葉。《「荘子」天運》

【類義語】顰に倣う(ひそみにならう)

 

效矉(ひんにならう)

清言(せいげん)

清言

【読み】せいげん

【意味】清談と同じ。

〔世説新語、文学〕謝鎭西(尚)わかき時、殷浩の能く清言するを聞き、ことさらに往きて之れにいたる。~こころを注ぎ意を傾け、覺えずに流汗面に交はる。

清談(せいだん)

清談

【読み】せい‐だん
【意味】清談と清言は同じ。

1.中国の魏晋時代に知識人の間に流行した老荘風の高踏的な哲学議論をいう。晋代の「竹林の七賢」の清談は特に有名。
2.世俗を離れた、趣味・芸術・学問などの高尚な話。

四矢反セズ(ししはんセズ)

四矢反セズ

【読み】ししはんせず

【意味】『詩経』斉風「猗嗟」の句に基づく表現で、反は矢が反復して同じ場所に当たること。

出典:『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 15頁 14行目

「先生射ヲ善クシ、四矢反セズトイヘドモイマダカツテまとヲ出デズ。」

〔意訳〕「先生は(矢を)射るのが上手く、四本の矢が同じ所に当たる程ではないが、(直径36㎝の)的を外すことはない。」

意味は文庫本の「注」語彙説明(260頁)を引用。

【原典】

『詩経』斉風「猗嗟いさ」より一部抜粋(『新釈漢文大系』を参照)

〔原文〕

四矢反兮 以禦亂兮

〔読み下し文〕

四矢反ししかへる もつらんふせ

〔現代口語文〕

四矢はみごとに重なる。国の乱れを禦ぐに足る頼もしい人よ。

〔意味〕

「四矢」は、射儀に用いる四本の矢の意(毛伝・集伝)。

「反」は、四本の矢が皆同じところにかへるの意、つまり四矢が重なり合って的中することをいう。

毛伝鄭箋の「反は復るなり。礼射は三たびして止む。射る毎に四矢、皆其の故処を得。此を之れ復と謂ふ。射は必ず四矢とは、其の能く四方の乱を禦ぐに象る」、屈万里の「反は復なり。四矢皆重複して一処より出づるを謂ふ」による。

林義光は的にたった矢をばっして、また射る、これを四回くり返しても四矢がすべて同じところにたるとする。

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PDFで読むなら → 詩経「斉風」猗嗟

梅原芳堂(うめはら ほうどう)

梅原芳堂

読み:うめはら ほうどう

生年月日:1885年3月1日(明治18年3月1日)

没年月日:1961年9月24日(昭和36六年9月24日)、没76歳。

出生地:山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。

本名「成美」のち「芳堂」と号す。

〔全て『徳山の文化に貢献せし人々』を参照〕

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芳堂年譜
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明治18年(1885年)3月1日 山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。本名成美、のち芳堂と号す。
明治24年(1891年)4月4日 6歳。嘉川村立興進小学校入学。
明治37年(1904年)4月一一  18歳。 山口中学卒業。
明治43年(1910年) 一一  25歳。 熊本医学専門学校卒。
明治44年(1911年)6月28日 26歳。宇部藤田家長女春枝と結婚。下関市黒石堂病院勤務。
明治45年(1912年)3月一一   27歳。大阪緒方病院勤務。

大正元年(1912年)12月16日   27歳。長男亨出生。
大正三年(1914年)5月一一  29歳。高知市中島病院耳鼻科部長勤務。
大正四年(1915年)2月12日   29歳。次男博人出生。
大正五年(1916年)8月――   31歳。徳山町東浜崎に開業。
大正六年(1917年)1月3日   31歳。三男輝出生。
大正九年(1920年)5月16日  35歳。四男昌美出生。
大正元年(1922年)1月23日  36歳。五男芳人出生。熊本医科大学耳鼻咽喉科入局。
大正十五年(1926年)5月――  41歳。文芸詩「つゞみ」(津々美)創刊、のち「草笛」と改題。

昭和二年(1927年)10月19日  42歳。周南医学会を創設。
昭和七年(1932年)5月1日  47歳。第十九回県医学会準備委員長。
昭和十一年(1936年) ――  51歳。徳山市医師会長。
昭和七年(1941年)5月4日  56歳。第廿八山口県医学会副会長。
昭和十八年(1943年)1月29日 58歳。山口県医師会理事。
昭和二十年(1945年)5月2日  60歳。五男芳人戦死。
昭和二十二年(1947年)6月23日  62歳。初孫美枝子出生。
昭和三十三年(1958年)4月  73歳。芳堂随筆『落暉を浴びて』刊行。
昭和三十六年(1961年)9月24日  76歳。薄月庵にて永眠。

昭和三十七年(1962年)3月。芳堂遺稿編集委員会が『枯尾花』を刊行。

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あ と が き
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芳堂梅原成美先生は、医家五世として生れ、幼少から文才に秀で中学時代の作品「秋の
なやみ」が現代名家文集に採録された頃から、文学立身か、医家継承か、と悩んだのち後
者を選んだ。
私が先生を知ったのは、終戦まもない頃ひらかれた徳山医師会の席上であるが、刀圭界
における輝かしい業績と識見とその風格は、全会員の尊敬を一身にあつめて、先生のある
ところ、路傍のゆきずり諸種の会合をとわず、和気藹々の雰囲気につゝまれていた。
杏林界における活躍のかたわら、趣味としてものした作品は、多面に亘り膨大なものと
なつて、独特の芳堂文学を形成し、かねてから徳山文化のためにと、繁忙をさいて、作品
集を克明にまとめあげていたが、之等はすべて、大東亜終戦直前の徳山煤災にあつて、惜
しくも家財道具一切と共に烏有に帰した。
晩年になって、初一念貫徹の気が汕然として再燃し、昭和三十三年迎春と共に、芳堂
随筆「落暉を浴びて」を刊行してからは、その情熱を”徳山の文化に貢献せし人々”なら
びに句詩集”枯尾花”の資料収集と採録に頷けたが、業なかばにして、二豎の冒かすとこ
ろとなり、遂に昭和三十六年九月二十四日、こう焉(溘焉)として逝かれた。
悲涙の未だ乾かないうらに、先生の遺徳は、芳堂文学賞の制定や、芳偲会の結成となっ
て現われ、二つに分けられていた遺稿も、有志が相寄って、翌年の陽春に第一部「枯尾
花」が世に送られた。
これに引き続いて第二部の編集にとりかかり、多岐に亘る資料の整理、考証、配列や写
真の蒐集は予想以上に手間どって、四年後の今日漸くまとめあげたが、この間、原文には
つとめて忠実に当ったものゝ、不備の点は編集責任者としての私が負うべきもので、切に
寛容を賜りたい。
ともあれ芳堂遺稿「徳山の文化に貢献せし人々」は単なる郷土史ではない、文化の砂漢
をして、緑林たらしめんとの悲願に結集された、芳堂文学の絶篇である。………げに「人
生は短かしされど芸術は永し」という言葉の通り、先生の名は、郷土丈化史上に永く特記
されて、周南の躍進と共に仰がれるであろう。
最後に、遺稿編集についていろいろ激励を戴いた芳偲会の方々に深謝し、職繁をいとわず終始尽力下さった委員を素描として厚意を明記したい。

玉野由槻雄 ―― 優雅繊細な周南の歌人、本書中の写真収録が示す通りカメラも玄人。

田村展祥 ――  柔和誠実で本書でも水際立った編集ぶり、らしからぬ新聞人、旬も作る。

原田光之 ―― 素朴実直さはよく周囲を感化、芳堂著書全篇を印刷、仏教心に富む。

松村 勇 ―― 緻密堅実で近代的感覺に優れた文人、芳堂著書全篇の発行所を担当。

昭和四十年三月

吐禅荘  磯村 仁

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参照文献
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『徳山の文化に貢献せし人々』

昭和四十年二月十五日印刷(五百部限定)
昭和四十年三月一日発行(非売品)
山口県徳山市梅園町 薄月庵
著 者  梅 原 芳 堂
山口県徳山市代々木通一丁目
発行者  梅 原   亨
山口県徳山巾久米 共楽園印刷課
印刷者  原  田  光  之
発行所
徳山市本町一ノ六マッノ書店 電話②二一九五番
芳堂遺稿編集委員会