竹萌
【読み】ちくほう
【意味】たけのこの異名。
〔詩、大雅、韓奕、其蔌維何維筍及蒲、箋〕筍、竹萌也。
〔蘇軾、和陶郭主簿詩〕雀鷇含淳音、竹萌抱靜節。
【読み】こうほう
【意味】晃は、日光の合字。よって、日光山の峰のこと。
【例文】雀宮ヲ過ルヤ晃峰ヲ乾位ニ望ム
〔読み〕すずめのみや を すぐ るや こうほう を けんい に のぞ む
〔意味〕雀宮駅(宿場)を過ぎると日光山の峰が北西にみえる。
「雀宮」は、奥州街道の宿場の一つ。日光街道沿いに「雀宮本陣跡」碑石がある。
「乾位」の乾は八卦の一つ。方位としては北西を示す。
〔出典〕『下谷叢話』第三十八章 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 222頁 13行目
〔元の出典〕『赴任日録』 鷲津毅堂・著
〔註〕例文が漢字カタカナ交りになっているのは、元の漢文漢詩を読み下し文にした為。漢字の読み假名は、音訓共にひらがな、送り假名をカタカナ表記している。
【詳細】
「晃峰」の晃は、元々有る漢字で、「あきらか。かがやく。ひかる。」の意味をもつ。
日本では、日と光の二字を合併して、日光の合字としても用い、日光山を晃山とした。
漢詩は近体詩が主流であり、固有名詞を二字に収める工夫をしている。
奈良時代に発布された「好字二字化令」も固有名詞の二字化に寄与した。
富士山は三文字なので漢詩漢文では、「富峰」「富岳」「富嶽」「士山」「不二」「芙蓉」「蓮岳」など二文字で表現している。
「芙蓉」「蓮岳」は、富士山の頂上に八つの峰があって八弁の蓮華(芙蓉とも)に似ていることから。
「士山」は、全国調べても富士山しかない。「不二」は、この世に二つと無いという意味だそうだ。
比叡山は、「叡山」「北嶺」。
比良山は「比良」。
越後(今の新潟県)と越中(今の富山県)の山々を「越山」。
飛騨山脈北西部の連峰を「立山」など。
日光山(男体山、二荒山とも呼ぶ)も三文字である。よって、「晃山」を作ったと思われる。
二荒山は、古称。弘法大師が音読みで「にこう」と読み、それを「日光」として今日に至ると『日光山縁起』にある。
因みに、『下谷叢話』の中で大沼枕山は、隅田川を「墨川」としている。
【雀宮から北西に観た山々を地図で確認】
雀宮から北西を遠望すると、男体山(日光山)が真正面に観える。
【『赴任日録』は『毅堂丙集 巻三』に残されている】
元々は漢文で書かれていたものを永井荷風が『下谷叢話』で読み下し文にした。
【眉雪の独言】
当初、晃峰は「かがやく峰」の意味だろうと思っていた。結果は「晃」が日光のことで固有名詞だった。
ここまで辿り着くのに、2月頃から調べて、約9ケ月かかった。
いや~、顔面蒼白、汗顔の至り、穴が有ったら入りたい。
「駅」を鉄道の駅とばかり思い込んでいた。宿場のことであった。「駅吏」の記述で気付きそうなものだが・・・
日本で鉄道が初めて開通したのは明治5年で、鷲津毅堂が赴任先・登米県(現・宮城県北東部)へ出発したのは明治2年!
汽車なんか走っている訳がない!
【読み】こうしゅう
【意味】詩歌をよみかわすこと。
【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 32頁 4行目
「遺稿の中に泉豊洲、倉成竜渚、頼杏坪らと賡酬の作あるは重に嚶鳴館の関係からであろう。」
【読み】きぎん
【意味】岩石が突き出た岸。
【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 36頁 14行目
「魚鳥マタ碕沂ノ間ニ相嬉ブ。」
意味は文庫本の「注」語彙説明(264頁)を引用。
【読み】そうじん しりゅう
【意味】
騒人は、屈原の「離騒」に基づく語で、詩人・文人をいう。
緇流は、僧侶。緇は、僧衣の黒染めの色をいう。
【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 14頁 13行目
「尾濃ノ間騒人緇流ソノ高風ヲ慕ヒ遊ブ者常ニ数十人。」
意味は文庫本の「注」語彙説明(260頁)を引用。
【読み】せんか
【意味】横切る。通り抜ける。つき切る。
【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 36頁 14行目
「池ノ南ハ密竹林ヲナシ、清流ソノ下ヲ穿過ス。」
【参照】『大漢和辞典』大修館書店
【読む】ひまちづか
【読む】ひまちとう
【意味】日待は、朝方まで人が集まって飲食する信仰のこと。その供養の記念として造立した塔が日待塔である。
「日」は太陽のこと、年月日の意味ではない。日の出を待って夜明しをする場合「日待」と呼び、月を拝む場合は「月待」と呼ぶ。
〔日待の詳細〕
村内の仲間の者が集まって、ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する行事。
その期日は土地によって異なるが、正月、五月、九月の十六日とする所や、月の二十三日を重んずる所もある。
なかでも六月二十三日が愛宕権現や地蔵菩薩の縁日で、この日を日待とする所もある。
また、庚申講、二十三夜講の日を日待とする所も、日待講と呼ぶ所もある。
さらに、日待小屋という建物があり、村の各人が費用を持参する例もある。
〔日待、月待、庚申待の違い〕
日待とは、近隣の仲間が集まって特定の日に徹夜してこもり明かし、日(太陽)の出を拝む行事。正月、五月、九月などに行われる。
月待とは、陰暦で月の十七日、十九日、二十三日などの夜、月の出るのを待って供物を供え、酒宴を催して月を祭ること。特に、正月、五月、九月の二十三夜が盛大であった。「月祭り」とも言う。
庚申待とは、庚申の日、仏家では青面金剛または帝釈天、神道では猿田彦神を祭り、村人や縁者が集まり、徹夜する行事。庚申会。
〔眉雪の愚見〕
日待、月待、庚申待は、元々は宗教祭事だったかも知れないが、庶民的民俗行事となった、と思われる。
夏の盆踊り、秋祭り、歌留多会などと同じで、次第に、男女の出会いの場となった。
【関連】月待塔(つきまちとう)、月待塚(つきまちづか)、庚申塔(こうしんとう)、庚申塚(こうしんづか)
【読み】いちざい
【意味】服用時点が同一の内服薬。
出典:『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 14頁 8行目
「先生ヲシテ診セシムルニ一劑ニシテ癒ユ。」