霿淞(ぼうしょう)とは

霿淞

霿淞 (←JPEG画像です。自家製で字体が異なりますがご容赦を♪)

【読み】ぼうしょう/むしょう

【意味】齊(斉)の地で一種の霜をいふ。霧淞。
〔曾鞏、冬夜即事詩〕月澹千門霿淞寒。〔注〕齊寒甚、夜気如霧、凝於水上、旦起視之如雪、日出飄満階庭、尤爲可愛、齊人謂之霜淞、諺曰、霿淞重霜淞、窮漢置飯甕、以爲豊年之兆。

【註】斉(せい)とは。

古代中国・春秋戦国時代の有力国家の一つ。周代の文王や武王の軍事・経済顧問であった太公望(呂尚)が封じた国。春秋時代には桓公が管仲や鮑叔を補佐役として国を豊かにし、桓公は春秋の五覇と呼ばれた。その後、家臣の田氏に乗っ取られ、田斉となった。

【参考 同音異義語】

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【読み】ぼうしょう/むしょう

【意味】川の名。臨潢の西南。金の世宗の時、遼人伊喇鄂斡、帝を稱し、金将默音、之を此處に敗る。満洲熱河省赤峯縣の東。

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矉ニ效フ(ひんにならふ)

矉ニ效フ

【読み】ひん に なら ふ 〔口語:ひんにならう〕

效矉

【音読み】こうひん
【訓読み】ひんにならう

【意味】

古、越の美女西施が胸の痛のために顔をしかめたのを見て、其の里の醜婦みな之にまねて矉したので、里人が驚いて逃げ去つたといふ故事。
是非善悪を考へず強ひて他のまねをする喩。

〔荘子、天運〕西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里、
其里之富人見之、堅閉門而不出貧人見之、挈妻子而去之走、彼知美矉而不知矉
之所以美。

〔李白、效古詩〕蜂眉不可妬、況乃效其矉。

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店

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【他の辞書の解説】

善し悪しも考えずに、やたらに人のまねをする。また、他人にならって物事をするのを謙遜していう言葉。《「荘子」天運》

【類義語】顰に倣う(ひそみにならう)

清言(せいげん)とは

清言

【読み】せいげん

【意味】清談と同じ。

〔世説新語、文学〕謝鎭西(尚)わかき時、殷浩の能く清言するを聞き、ことさらに往きて之れにいたる。~こころを注ぎ意を傾け、覺えずに流汗面に交はる。

清談(せいだん)とは

清談

【読み】せい‐だん

【意味】清談と清言は同じ。

1.中国の魏晋時代に知識人の間に流行した老荘風の高踏的な哲学議論をいう。晋代の「竹林の七賢」の清談は特に有名。
2.世俗を離れた、趣味・芸術・学問などの高尚な話。

四矢反セズ(ししはんセズ)

四矢反セズ

【読み】ししはんせず

【意味】『詩経』斉風「猗嗟」の句に基づく表現で、反は矢が反復して同じ場所に当たること。

【文例】

「先生射ヲ善クシ、四矢反セズトイヘドモイマダカツテまとヲ出デズ。」

〔意訳〕「先生は(矢を)射るのが上手く、四本の矢が同じ所に当たる程ではないが、(直径約36㎝の)的を外すことはない。」

『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 15頁 14行目

意味は文庫本の「注」語彙説明(260頁)を引用。解説者は成瀬哲生なるせてつお教授(山科大学)。

註:図書館で数種の辞書字典に当ったが見つからなかったので、文庫本の解説を引用させて頂いた。

【出典】

『詩経』斉風「猗嗟いさ」より一部抜粋(『新釈漢文大系』を参照)

〔原文〕

四矢反兮 以禦亂兮

〔読み下し文〕

四矢反ししかへる もつらんふせ

〔現代口語文〕

四矢はみごとに重なる。国の乱れを禦ぐに足る頼もしい人よ。

〔意味〕

「四矢」は、射儀に用いる四本の矢の意(毛伝・集伝)。

「反」は、四本の矢が皆同じところにかへるの意、つまり四矢が重なり合って的中することをいう。

毛伝鄭箋の「反は復るなり。礼射は三たびして止む。射る毎に四矢、皆其の故処を得。此を之れ復と謂ふ。射は必ず四矢とは、其の能く四方の乱を禦ぐに象る」、屈万里の「反は復なり。四矢皆重複して一処より出づるを謂ふ」による。

林義光は的にたった矢をばっして、また射る、これを四回くり返しても四矢がすべて同じところにたるとする。

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縦書きのPDFで読むなら → 詩経「斉風」猗嗟

梅原芳堂(うめはら ほうどう)〔人物〕

梅原芳堂

【読み】うめはら ほうどう

【略歴】

生年月日:1885年3月1日(明治18年3月1日)

没年月日:1961年9月24日(昭和36六年9月24日)、没76歳。

出生地:山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。

本名「成美」のち「芳堂」と号す。

〔全て『徳山の文化に貢献せし人々』を参照〕

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芳堂年譜
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明治18年(1885年)3月1日 山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。本名成美、のち芳堂と号す。
明治24年(1891年)4月4日 6歳。嘉川村立興進小学校入学。
明治37年(1904年)4月一一  18歳。 山口中学卒業。
明治43年(1910年) 一一  25歳。 熊本医学専門学校卒。
明治44年(1911年)6月28日 26歳。宇部藤田家長女春枝と結婚。下関市黒石堂病院勤務。
明治45年(1912年)3月一一   27歳。大阪緒方病院勤務。

大正元年(1912年)12月16日   27歳。長男亨出生。
大正三年(1914年)5月一一  29歳。高知市中島病院耳鼻科部長勤務。
大正四年(1915年)2月12日   29歳。次男博人出生。
大正五年(1916年)8月――   31歳。徳山町東浜崎に開業。
大正六年(1917年)1月3日   31歳。三男輝出生。
大正九年(1920年)5月16日  35歳。四男昌美出生。
大正元年(1922年)1月23日  36歳。五男芳人出生。熊本医科大学耳鼻咽喉科入局。
大正十五年(1926年)5月――  41歳。文芸詩「つゞみ」(津々美)創刊、のち「草笛」と改題。

昭和二年(1927年)10月19日  42歳。周南医学会を創設。
昭和七年(1932年)5月1日  47歳。第十九回県医学会準備委員長。
昭和十一年(1936年) ――  51歳。徳山市医師会長。
昭和七年(1941年)5月4日  56歳。第廿八山口県医学会副会長。
昭和十八年(1943年)1月29日 58歳。山口県医師会理事。
昭和二十年(1945年)5月2日  60歳。五男芳人戦死。
昭和二十二年(1947年)6月23日  62歳。初孫美枝子出生。
昭和三十三年(1958年)4月  73歳。芳堂随筆『落暉を浴びて』刊行。
昭和三十六年(1961年)9月24日  76歳。薄月庵にて永眠。

昭和三十七年(1962年)3月。芳堂遺稿編集委員会が『枯尾花』を刊行。

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あ と が き
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芳堂梅原成美先生は、医家五世として生れ、幼少から文才に秀で中学時代の作品「秋の
なやみ」が現代名家文集に採録された頃から、文学立身か、医家継承か、と悩んだのち後
者を選んだ。
私が先生を知ったのは、終戦まもない頃ひらかれた徳山医師会の席上であるが、刀圭界
における輝かしい業績と識見とその風格は、全会員の尊敬を一身にあつめて、先生のある
ところ、路傍のゆきずり諸種の会合をとわず、和気藹々の雰囲気につゝまれていた。
杏林界における活躍のかたわら、趣味としてものした作品は、多面に亘り膨大なものと
なつて、独特の芳堂文学を形成し、かねてから徳山文化のためにと、繁忙をさいて、作品
集を克明にまとめあげていたが、之等はすべて、大東亜終戦直前の徳山煤災にあつて、惜
しくも家財道具一切と共に烏有に帰した。
晩年になって、初一念貫徹の気が汕然として再燃し、昭和三十三年迎春と共に、芳堂
随筆「落暉を浴びて」を刊行してからは、その情熱を”徳山の文化に貢献せし人々”なら
びに句詩集”枯尾花”の資料収集と採録に頷けたが、業なかばにして、二豎の冒かすとこ
ろとなり、遂に昭和三十六年九月二十四日、こう焉(溘焉)として逝かれた。
悲涙の未だ乾かないうらに、先生の遺徳は、芳堂文学賞の制定や、芳偲会の結成となっ
て現われ、二つに分けられていた遺稿も、有志が相寄って、翌年の陽春に第一部「枯尾
花」が世に送られた。
これに引き続いて第二部の編集にとりかかり、多岐に亘る資料の整理、考証、配列や写
真の蒐集は予想以上に手間どって、四年後の今日漸くまとめあげたが、この間、原文には
つとめて忠実に当ったものゝ、不備の点は編集責任者としての私が負うべきもので、切に
寛容を賜りたい。
ともあれ芳堂遺稿「徳山の文化に貢献せし人々」は単なる郷土史ではない、文化の砂漢
をして、緑林たらしめんとの悲願に結集された、芳堂文学の絶篇である。………げに「人
生は短かしされど芸術は永し」という言葉の通り、先生の名は、郷土丈化史上に永く特記
されて、周南の躍進と共に仰がれるであろう。
最後に、遺稿編集についていろいろ激励を戴いた芳偲会の方々に深謝し、職繁をいとわず終始尽力下さった委員を素描として厚意を明記したい。

玉野由槻雄 ―― 優雅繊細な周南の歌人、本書中の写真収録が示す通りカメラも玄人。

田村展祥 ――  柔和誠実で本書でも水際立った編集ぶり、らしからぬ新聞人、旬も作る。

原田光之 ―― 素朴実直さはよく周囲を感化、芳堂著書全篇を印刷、仏教心に富む。

松村 勇 ―― 緻密堅実で近代的感覺に優れた文人、芳堂著書全篇の発行所を担当。

昭和四十年三月

吐禅荘  磯村 仁

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参照文献
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『徳山の文化に貢献せし人々』

昭和四十年二月十五日印刷(五百部限定)
昭和四十年三月一日発行(非売品)
山口県徳山市梅園町 薄月庵
著 者  梅 原 芳 堂
山口県徳山市代々木通一丁目
発行者  梅 原   亨
山口県徳山巾久米 共楽園印刷課
印刷者  原  田  光  之
発行所
徳山市本町一ノ六マッノ書店 電話②二一九五番
芳堂遺稿編集委員会

飽暖/飽煖(ほうだん)とは

飽暖/飽煖

【読み】ほうだん

【意味】「飽食暖衣/飽食煖衣」(ほうしょくだんい)の略。

不自由のない生活のたとえ。または、贅沢な生活のたとえ。
飽きるくらいの十分な食料と暖かい衣服があって、生活に困らないという意味から。

【出典】『孟子』「滕文公・上」

『日本国語大辞典』の表記の「飽暖・飽煖」PDF

 

【類義語】

暖衣飽食/煖衣飽食(だんい-ほうしょく)

錦衣玉食(きんい-ぎょくしょく)

侈衣美食(しい-びしょく)

豊衣足食(ほうい-そくしょく)

 

翩翩濁世佳公子(へんぺん じょくせの かこうし)

翩翩濁世佳公子/翩々濁世之佳公子

【読み】へんぺん – じょくせ – の- かこうし

【意味】(平原君は)翩翩たる濁世の佳公子なり。

この軽々しく落ち着かない濁り汚れた世の中に於いても、(平原君は)品格高き貴公子である。

〇翩々(へんぺん)・・・軽々しく落ち着かないさま。

文例「何うかして翩々たる軽薄才子になりたい」〈夏目漱石『彼岸過迄』〉

〇濁世(じょくせ/だくせ)・・・仏教で、濁り汚れた世の中。末世 (まっせ) 。

〇佳公子(かこうし)・・・品格の高き貴公子。

【出典】

『史記』「平原君虞卿列伝 第十六」

太史公の平原君に対する評の一節。

「平原君、翩翩濁世之佳公子也」

【追記】

西園寺公をおくる徳富蘇峰の一文に「翩々濁世佳公子」という文句がある。

丹前風呂(たんぜんぶろ)とは

丹前風呂

【読み】たんぜん-ぶろ

【意味】江戸時代初期、丞応じょうおう明暦めいれき(1652~58)の頃、湯女風呂ゆなぶろが流行し、江戸・神田四軒町雉子ちご町の、堀丹後守ほりたんごのかみの下屋敷の前にある風呂屋を「丹前風呂」と呼んだ。

丹前勝山

【読み】たんぜん‐かつやま

【意味】江戸で有名な遊女。正保しょうほう三年(1646)~明暦めいれき二年(1656)在籍と伝える。勝山と名乗る他の遊女と区別するため丹前勝山という。丹前とは堀丹後守ほりたんごのかみの屋敷前にあったので丹前風呂と呼ばれた風呂屋の湯女ゆなとしての前歴による命名である。

湯女の時から人気が高く、吉原に移籍して太夫たゆうの第一人者となった。裏付きのはかまに木刀を差した外出姿の歩き方は丹前風と言われて流行し、白元結しろもつとい片髷かたまげ伊達だて結びは勝山髷とよばれて後世に名を残した。

丹前風

【読み】たんぜん‐ふう

【意味】江戸初期の道楽者や俠客きょうかくの間で流行した伊達姿だてすがたなどの風俗。

江戸初期、神田の堀丹後守ほりたんごのかみの屋敷前の湯女風呂ゆなぶろを、丹前風呂と呼び、ここの湯女・丹前勝山たんぜんかつやまを目当てに出入りする旗本奴たちが、髪型、広袖ひろそでの着物、履物はきもの、刀の差し方、歩き方などを真似し、風流を争った。それが一種独特の伊達姿となり、流行った。これを丹前風と呼ぶ。

歌舞伎かぶき舞踊ぶようにおける「丹前」とは、この風俗を様式化、舞踊化したものである。

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湯女

【読み】ゆな

【意味】

1.温泉宿にいて入浴客の世話や接待をする女。有馬(現・兵庫県神戸市)にいたものが有名。

*日葡辞書(1603‐04)「Yuna(ユナ)<訳>入浴の世話をする女」

*太閤記(1625)一六・秀吉公有馬御湯治之事「有馬中へ鳥目二百貫、湯女共に五十貫被下」

*浮世草子・好色一代男(1682)三・六「此徒(いたづら)、津の国有馬の湯女(ユナ)に替る所なし」

2.江戸・大坂などの風呂屋にいた一種の私娼。

*慶長見聞集(1614)四「ゆなぶろ繁昌の事<略>湯女と云て、なまめける女ども廿人、三拾人ならび居てあかをかき髪をそぐ」

*浮世草子・好色訓蒙図彙(1686)上・人倫「湯娜(ユナ)風呂屋物 猿」

*人情本・祝井風呂時雨傘(1838)三・序「風呂とは呼べど洗湯ならで、湯女(ユナ)の名残も上方のみ」

[語源説]

浴室を預り管理する役僧をユイナ(湯維那)といい、更に略してユナ(湯那)とよんだところから〔風呂と湯の話〕。

 

丹前

【読み】たんぜん

【意味】家庭でくつろぐとき、防寒用として衣服の上に重ね着する綿入れの男子の家庭着。

普通、浴衣の上に重ねて一つ前にあわせて着衣し、細帯を締める。

江戸時代初期、湯女風呂ゆなぶろが流行し、江戸、堀丹後守ほりたんごのかみ邸前にある風呂屋を丹前風呂と呼び、それに通う男伊達おとこだての異様な風を丹前風といい、これが上方かみがたへ移って丹前とよばれ、防寒着の一種となった。

おかしなことに、語源元の関東では、褞袍(どてら)と呼ぶ。

丹前01