金を山に蔵し、珠を淵に蔵す

金を山に蔵し、珠を淵に蔵す

【読み】きんをやまにかくし、たまをふちにかくす

【意味】金は山にあるままにして掘り出さず、珠は淵に沈んだままにして取り上げない。

【真意】(黄金や宝石などを欲しがる)物欲をいましめたことば。

 

【原文】

君子明於此十者、則韜乎、其事心之大也。

沛乎、其為萬物逝也。

若然者、蔵金於山、蔵珠於淵、不利貨財、不近富貴、不楽壽、不哀夭、不栄通、不醜窮。

不拘一世之利、以為己私分。

不以王天下為己処顕。顕則明。萬物一府、死生同状況。

【読み下し文】

君子は十者じゅっしゃあきらかならば、すなわ韜乎とうこたり、其の心をおさむることのだいなるは。

沛乎はいこたり、其の萬物ばんぶつせいるは。

しかるがごとき者は、きんを山にかくし、珠をふちに蔵し、貨財かざいとせず、富貴ふきちかづかず、じゅを楽しまず、

ようかなしまず、つうえいとせず、きゅうしゅうとせず。

一世いっせいこうして、もっおの私分しぶんと為さず。

天下に王たるを以て、おのれが顕けんると為さず。

けんならば則ち明かなり。萬物はいつにして、死生しせいじょうおなじうす。

【現代口語訳】

君主は、以上の十のことがらがはっきりすれば、心の治めかたは広々と大きくなるであろうし、

徳が広くゆきわたって、万物の帰趨きすうするところなるであろう。

かかる人物は、金は山にあるままにしておき、珠は淵に沈んだままにしておく。

そして、高価な物に心を引かれず、富貴に近づかず、長命を願わず、

短命を悲しまず、栄達を名誉と思わず、貧窮を恥辱とも考えず、巨万の利を釣りあげて一人占めしようともせず、

世の支配者だからといって、顕位けんいにあることを意識しない。

顕位にあるときは、世の人々を公平にいつくしむ。

(君主が以上のようにできるのは、)万物が一体であり、死生は同じことだと見ている(人生観)からである。

【出典】『荘子』天地第十二 より一部抜粋

【参照】『新釈漢文大系』「荘子 下」 昭和59年11月10日第25版 p.364~368

衆説舛駁し、互いに見る所を執る〔顔師古〕

衆説舛駁し、互いに見る所を執る

【読み】 しゅうせつ せんばくし、たがいに みるところを とる

【原文】 衆説舛駁、互執所見

【出典】 『旧唐書』志二 礼儀二

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【解説】

〇舛駁(せんばく)・・・入りまじって正しくない。また、純粋でないさま。

〇顔師古(がんしこ)
西暦581~645年。享年64歳。男性。
中国、唐の学者。名は籀 (ちゅう) 。字は師古。陝西(せんせい)の人。
祖父の顔之推(がんしすい)をはじめ、一族に学者や高名な書家が多い。
隋の時代、長安で教育に従事し、唐が興ると中書舎人、中書侍郎として詔書の起草などを行なった。
630年太宗の命を受けて五経のテキストの校定を行い、『大唐儀礼』 (100巻) の編纂に加わり、
孔穎達 (こうえいたつ) らと『五経正義』の撰集にあたった。
なかでも『漢書』に施した注が有名。
正議大夫、秘書監を経て弘文館学士に終った。

〇明堂(めいどう)
「明堂」とは、中国古代に帝王がそこで政教を明らかにしたとされる建物。
政治、儀礼、祭祀、教育といった、国家の重要な営みはすべてそこで行われたが、のちにそれらは朝廷、圜丘(えんきゆう:天をまつる壇)、宗廟(そうびよう)、辟雍(へきよう:学校)など
に分化していったといわれる。
『周礼(しゆらい)』や『礼記(らいき)』などの経書に記載されているが、
その具体的な規模についてはよくわからず、古来より経学上の重要な争点の一つであった。

〇旧唐書(くとうじょ)

中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。
二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。

郢客陽春を唱う(えいかくようしゅんをとなう )

郢客陽春を唱う

【読み】えいかく ようしゅん を となう

【意味】卑俗な音曲に馴れている郢の人の間で高尚な(宋の)陽春の曲を歌うこと。

【背景】楚王が宋玉に問うた。「先生はわが都で評価が高くないが、どうしたことか?」

それに対して宋玉は「低俗な曲に馴れている人々が、陽春白雪のような高尚な曲を聴いても理解できない。

鳳凰が飛ぶ眺めを小鳥は知ることもない。

それと同じで、世俗の人々に、どうして私の様な(高尚な)者を理解できるでしょうか」

と答えた。

<俗な解釈>「私の様な高尚な人間を、貴方の国の低俗な人々に理解できるはずがないでしょう」

と、宋玉は楚王に皮肉を言ったのである。

【真意】高雅な者が卑俗の間に受け容れられない(理解されない)たとえ。

【語彙説明】

楚王(そおう)

宋玉(そうぎょく)・・・戦国末期(紀元前3世紀頃)の楚の文人。屈原の弟子とも後輩ともいわれる。

郢(えい)・・・中国、春秋時代の楚の都。
享楽的な都であったと言われており、「俗・みだら」の意に使われることがある。
例:郢曲(えいきょく)①催馬楽・風俗歌・今様など中世・中古の歌謡・流行歌の総称。

②低俗な音楽。俗曲。

陽春・・・「陽春白雪」の略。昔、中国の楚で最も高尚とされた歌曲。

【原文】郢客唱陽春

【出典】宋玉-対楚王問

孔席暖まらず墨突黔まず(こうせき あたたまらず ぼくとつ くろまず)

孔席暖まらず墨突黔まず

【読み】こうせき あたたまらず ぼくとつ くろまず

【意味】孔子の座席は暖まる暇がなく、墨子の家の煙突は煙で黒くなることがない。

【真意】孔子と墨子は世を救うために東奔西走して家に落ち着くことがなかったということ。

〔班固‐答賓戯〕

 

孔子黔突なく、墨子暖席なし

【読み】こうしけんとつなく、ぼくしだんせきなし

【意味】孔子の家の煙突は煙で黒くなることがない、墨子の座席は暖まる暇がなく。

【真意】孔子と墨子は世を救うために東奔西走して家に落ち着くことがなかったということ。

【原文】孔子無黔突、墨子無煖席

淮南子‐脩務訓〕

 

『大漢和辞典』表記の「黔突」PDF

 

北叟笑む(ほくそえむ)

北叟笑む

【読み】ほくそ‐えむ

【意味】物事が思い通りにうまくいったとき、満足してひそかに笑う。

にやにやする。ほくそわらう。

【故事】「人間万事塞翁にんげんばんじさいおうが馬」の主人公である北叟が、喜憂に対して微笑した。

「北叟(ほくそう)」とは「北方の老人」の意味で、「塞翁」のこと。
「禍福いずれの場合も達観したように落ち着き払い、かつ喜ぶときにも憂うときにも少し笑みをたたえた」と伝えられた。

<人間万事塞翁が馬」の故事>(『淮南子えなんじ』人間訓より)

昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、
胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に「塞翁が馬」ともいう。
人間は「じんかん」とも読み、「人類」ではなく「世間」を意味する。

辞書辞典の「北叟笑む」を見るPDF

 

狂瀾を既倒に廻らす(きょうらんをきとうにめぐらす)

狂瀾を既倒に廻らす/狂瀾を既倒に廻す

読み:きょうらん を きとう に めぐらす/きょうらん を きとう に かいす

意味:「狂瀾」は荒れ狂う大波、「既倒」は既に倒れたという意。崩れかけた大波を、向こうへ押し返すということ。

真意:不利になった形勢を、再び元の状態へ戻すことのたとえ。

出典:韓愈『進学解』に「正統から遠ざかっていく学問を元の正しい姿に戻すのは、狂瀾を既倒に廻らすようなもので、とても苦労の多いことだ。」の一節がある。

参照:『故事成語を知る辞典』より

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意味:狂える如き大波が、頽(くず)れかかって来るを支えて、他の方面へ遣ることにて、邪道を正道に引き返すこと。

原文:尋墜緒之茫茫、獨旁捜而遠紹、障百川而東之、廻狂瀾於旣倒

出典:韓愈『進学解』

参照:『故事熟語大辞典』池田四郎次郎著より

 

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多くの辞書は、「狂瀾を既倒に返す」とも云うと説明されているが、これは間違い。

「廻らす(めぐらす)」の部分を、漢文調に「廻す(かいす)」と音読みして、これを「かえす」と聞き間違ったところから、「返す」と誤ったもの。

「めぐらす」または「かいす」が正しい。