羞恥は青春の飾りであるが、老年では滑稽である。
【読み】しゅうちは せいしゅんのかざりであるが、ろうねんは こっけいである
【意味】若い人が恥ずかしがるのは美しくもあるが、年寄りが恥ずかしがって主張すべきことも主張できなくてはお粗末。
人は年齢相応の言動が大切である。
アリストテレス(BC384~323、ギリシャ哲学者)

ウェブ上に無かった熟語や故事諺を集めました
故事諺の解説
【読み】とま に いね つちくれ を まくら とす
【意味】親の喪中、子たるもの、その親の土に在るものと思って倚廬に在りて苫を被り、土塊を枕として寝る。
<儒教の葬送儀礼>
【出典】古代中国の儒教文献『儀礼』の「既夕」の項目。
○倚廬(いろ)・・・天子が父母の喪に服するときにこもる仮屋。
○苫(とま)・・・菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。
【読み】ひ、せいざんに せまりて、きそくえんえんたり
【意味】日(陽)が西の山にせまって、やがて没せんとするのに似て、息も絶え絶えの状況です。
【真意】老い先短く、死期が迫っているというたとえ。
【背景】晋の泰始(265~274年)中、李密は、武帝に召されて太子洗馬に除せられたが、年老いた祖母を面倒看なければならない故、詔を拝辞する意の上奏文がこの『陳情表』で、大意は次の通りである。
「私が居なければ高齢で死に瀕した祖母は余年を終え天寿を全うすることはできない。
孝道を以て天下を納めんとする陛下は、この私の苦衷を察して私の申し出を許して欲しい。
さすれば、祖母の死後は陛下にお仕えし節を尽くす御恩に報いる覚悟です。」
今回の「日西山に薄りて~」は、この中の上奏文の一節にあるものです。
【原文】
伏惟、聖朝以孝治天下。凡在故老、猶蒙矜育。
況臣孤苦、特為尤甚、且臣少仕偽朝、歴職郎署。
本圖宦達、不矜名節、今臣亡国賎不俘、至微至陋。
過蒙抜擢、寵命優渥。
豈敢盤桓、有所希翼。
但以劉日薄西山、気息奄々。
人命危浅、朝不慮夕。
【読み下し文】
伏して惟みるに、聖朝孝を以て天下を治む。
凡そ故老にありても、猶を矜育を蒙る。
況や臣が孤苦なる、特に尤も甚だしと為すをや。
且つ臣少くして偽朝に仕え、職を郎署に歴たり。
本より宦達を圖りて、名節を矜らず。
今臣は亡国の賤俘にして、至微至陋なり。
過って抜擢を蒙り、寵命優渥なり。
豈敢えて盤桓して、希翼する所有らんや。
但だ以うに、劉、日に西山に薄りて、気息奄々たり。
朝に夕べを慮られず。
【現代口語訳】
伏して思いますに、聖朝は孝の道徳を本として天下を治められます。
およそ有徳の高齢者は一段の憐れみと養いの恩恵を蒙っております。
まして臣のように孤立困苦の特に甚だしい者に至っては、なおさらお上の憐れみを頂けるはずであります。
それに臣は若くして偽りの朝廷であった蜀に仕え、尚書郎の官職を経ました。
臣はもとより官界での栄達を望みとし、民間において名誉や節操を誇ることは考えておりません。
今、臣は亡国の賤しい俘虜であって、至って微力の、至って下賤の身であります。
しかし、過ってこのような抜擢を蒙り、恵み深い恩命を拝しました。
どうしてぐずぐずとためらい渋って、他に何を願い望むことがありましょうか。
ただ思いますに、祖母の劉の寿命は、日(太陽)が西の山にせまってやがて没せんとするのに似て、息も絶え絶えの状況であります。
人の生命ははかなく危ういものですから、朝に夕べのことが予測できません。
【出典】李密『陳情表』 より一部抜粋
【参照】『新釈漢文大系 第82巻 文選(文章篇)上』 平成6年7月15日初版 p.289~294
*———-*———-*
【解説】
西山(せいざん)・・・「西山」は中国、北京市の西郊一帯の山地を示す場合もあるが、今回の場合は、「せいざん」と音読みするものの「日」が西日(陽)を指し、太陽が沈む「西の山」(にしのやま)の意味。
抑々、北京市の「西山(せいざん)」を李密が住む成都(蜀)からは到底望見することは出来ない。
李 密(り みつ、224年~287年)蜀漢・西晋に仕えた政治家。
西暦267年、西晋の初代皇帝となった司馬炎によって招聘された。だが、90歳を過ぎた祖母を置いて洛陽へ行くわけにはいかず、かといって勅命に背くわけにもいかなかった。
そこで李密は司馬炎に宛て、後世に『陳情表』(ちんじょうのひょう)と呼ばれる上奏文を表した。
祖母を思う李密の心情に心動かされた司馬炎は、州県に李密と祖母を手厚く保護するように命じた。
【読み】きんをやまにかくし、たまをふちにかくす
【意味】金は山にあるままにして掘り出さず、珠は淵に沈んだままにして取り上げない。
【真意】(黄金や宝石などを欲しがる)物欲を戒めたことば。
【原文】
君子明於此十者、則韜乎、其事心之大也。
沛乎、其為萬物逝也。
若然者、蔵金於山、蔵珠於淵、不利貨財、不近富貴、不楽壽、不哀夭、不栄通、不醜窮。
不拘一世之利、以為己私分。
不以王天下為己処顕。顕則明。萬物一府、死生同状況。
【読み下し文】
君子は此の十者に明かならば、則ち韜乎たり、其の心を事むることの大なるは。
沛乎たり、其の萬物の逝と為るは。
然るが若き者は、金を山に蔵し、珠を淵に蔵し、貨財を利とせず、富貴に近かず、壽を楽しまず、
夭を哀しまず、通を栄とせず、窮を醜とせず。
一世の利に拘して、以て己が私分と為さず。
天下に王たるを以て、己が顕に処ると為さず。
顕ならば則ち明かなり。萬物は府を一にして、死生は状を同じうす。
【現代口語訳】
君主は、以上の十のことがらがはっきりすれば、心の治めかたは広々と大きくなるであろうし、
徳が広くゆきわたって、万物の帰趨するところなるであろう。
かかる人物は、金は山にあるままにしておき、珠は淵に沈んだままにしておく。
そして、高価な物に心を引かれず、富貴に近づかず、長命を願わず、
短命を悲しまず、栄達を名誉と思わず、貧窮を恥辱とも考えず、巨万の利を釣りあげて一人占めしようともせず、
世の支配者だからといって、顕位にあることを意識しない。
顕位にあるときは、世の人々を公平に慈む。
(君主が以上のようにできるのは、)万物が一体であり、死生は同じことだと見ている(人生観)からである。
【出典】『荘子』天地第十二 より一部抜粋
【参照】『新釈漢文大系』「荘子 下」 昭和59年11月10日第25版 p.364~368
【読み】 しゅうせつ せんばくし、たがいに みるところを とる
【原文】 衆説舛駁、互執所見
【現代口語訳】
「多くの意見が互いに食い違い、それぞれが自分の見方に固執する」
または「様々な説が入り乱れて矛盾し、各自が自分の主張を譲らない」
【出典】 『旧唐書』志二 礼儀二
*———-*———-*
【解説】
〇衆説(しゅうせつ)・・・多くの説や意見。
〇舛駁(せんばく)・・・入りまじって正しくない。また、純粋でないさま。
〇見る所(みるどころ)・・・見方、考え方、意見。
〇執る(とる)・・・自分の考えに固執する、守る。
〇顔師古(がんしこ)
西暦581~645年。享年64歳。男性。
中国、唐の学者。名は籀 (ちゅう) 。字は師古。陝西(せんせい)の人。
祖父の顔之推(がんしすい)をはじめ、一族に学者や高名な書家が多い。
隋の時代、長安で教育に従事し、唐が興ると中書舎人、中書侍郎として詔書の起草などを行なった。
630年太宗の命を受けて五経のテキストの校定を行い、『大唐儀礼』 (100巻) の編纂に加わり、
孔穎達 (こうえいたつ) らと『五経正義』の撰集にあたった。
なかでも『漢書』に施した注が有名。
正議大夫、秘書監を経て弘文館学士に終った。
〇明堂(めいどう)
「明堂」とは、中国古代に帝王がそこで政教を明らかにしたとされる建物。
政治、儀礼、祭祀、教育といった、国家の重要な営みはすべてそこで行われたが、のちにそれらは朝廷、圜丘(えんきゆう:天をまつる壇)、宗廟(そうびよう)、辟雍(へきよう:学校)など
に分化していったといわれる。
『周礼(しゆらい)』や『礼記(らいき)』などの経書に記載されているが、
その具体的な規模についてはよくわからず、古来より経学上の重要な争点の一つであった。
〇旧唐書(くとうじょ)
中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。
二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。
【読み】えいかく ようしゅん を となう
【意味】卑俗な音曲に馴れている郢の人の間で高尚な(宋の)陽春の曲を歌うこと。
【背景】楚王が宋玉に問うた。「先生はわが都で評価が高くないが、どうしたことか?」
それに対して宋玉は「低俗な曲に馴れている人々が、陽春白雪のような高尚な曲を聴いても理解できない。
鳳凰が飛ぶ眺めを小鳥は知ることもない。
それと同じで、世俗の人々に、どうして私の様な(高尚な)者を理解できるでしょうか」
と答えた。
<俗な解釈>「私の様な高尚な人間を、貴方の国の低俗な人々に理解できるはずがないでしょう」
と、宋玉は楚王に皮肉を言ったのである。
【真意】高雅な者が卑俗の間に受け容れられない(理解されない)たとえ。
【語彙説明】
〇楚王(そおう)・・・このときは襄王。姓は芈(み)、名は横(おう)。戦国時代の楚の第22代君主。前298年から前263年まで、約36年間在位した。
〇宋玉(そうぎょく)・・・戦国末期(紀元前3世紀頃)の楚の文人。屈原の弟子とも後輩ともいわれる。襄王の父王から仕えている側近。
〇郢(えい)・・・中国、春秋時代の楚の都。
享楽的な都であったと言われており、「俗・みだら」の意に使われることがある。
熟語の例:「郢曲」(えいきょく)・・・①催馬楽・風俗歌・今様など中世・中古の歌謡・流行歌の総称。②低俗な音楽。俗曲。
〇陽春・・・「陽春白雪」の略。昔、中国の楚で最も高尚とされた歌曲。
【原文】郢客唱陽春
【出典】宋玉-対楚王問
【読み】こうせき あたたまらず ぼくとつ くろまず
【意味】孔子の座席は暖まる暇がなく、墨子の家の煙突は煙で黒くなることがない。
【真意】孔子と墨子は世を救うために東奔西走して家に落ち着くことがなかったということ。
〔班固‐答賓戯〕
孔子黔突なく、墨子暖席なし
【読み】こうしけんとつなく、ぼくしだんせきなし
【意味】孔子の家の煙突は煙で黒くなることがない、墨子の座席は暖まる暇がなく。
【真意】孔子と墨子は世を救うために東奔西走して家に落ち着くことがなかったということ。
【原文】孔子無黔突、墨子無煖席
〔淮南子‐脩務訓〕
【読み】ほくそ‐えむ
【意味】物事が思い通りにうまくいったとき、満足してひそかに笑う。
にやにやする。ほくそわらう。
【故事】「人間万事塞翁が馬」の主人公である北叟が、喜憂に対して微笑した。
「北叟(ほくそう)」とは「北方の老人」の意味で、「塞翁」のこと。
「禍福いずれの場合も達観したように落ち着き払い、かつ喜ぶときにも憂うときにも少し笑みをたたえた」と伝えられた。
<人間万事塞翁が馬」の故事>(『淮南子』人間訓より)
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、
胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に「塞翁が馬」ともいう。
人間は「じんかん」とも読み、「人類」ではなく「世間」を意味する。
【読み】きょうらん を きとう に めぐらす/きょうらん を きとう に かいす
【意味】「狂瀾」は荒れ狂う大波、「既倒」は既に倒れたという意。崩れかけた大波を、向こうへ押し返すということ。
【真意】不利になった形勢を、再び元の状態へ戻すことのたとえ。
【出典】韓愈『進学解』に「正統から遠ざかっていく学問を元の正しい姿に戻すのは、狂瀾を既倒に廻らすようなもので、とても苦労の多いことだ。」の一節がある。
【参照】『故事成語を知る辞典』より
*———–*
【意味】狂える如き大波が、頽(くず)れかかって来るを支えて、他の方面へ遣ることにて、邪道を正道に引き返すこと。
【原文】尋墜緒之茫茫、獨旁捜而遠紹、障百川而東之、廻狂瀾於旣倒
【出典】韓愈『進学解』
【参照】『故事熟語大辞典』 池田四郎次郎・著 宝文館
*———–*
多くの辞書は、「狂瀾を既倒に返(かえ)す」とも云うと説明されているが、これは完全な間違い。
「廻らす(めぐらす)」の部分を、漢文調に「廻(かい)す)」と音読みして、これを「かえす」と聞き間違ったところから、「返す」と誤ったもの。
訓読みで「めぐらす」または、音読みで「かいす」が正しい。