石榴口(ざくろぐち)

石榴口(ざくろ-ぐち)

1.江戸時代の銭湯の、洗い場から浴槽への出入り口。
湯のさめるのを防ぐため、浴槽を板戸で仕切り、その下部を開けて身体を屈めて出入りするように造ったもの。じゃくろぐち。

咄本・吟咄川(1773年)せん湯「せんとうへゆき、まっぱだかになりてざくろ口から」

滑稽本・浮世風呂‐前・序「目に見えぬ鬼神を隻腕(かたうで)に雕(ゑり)たる侠客(ちうつはら)も、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや」

2.(石榴の実がはじけるように) 裂けて開いた口。はぜぐち。

語源説:当時、鏡磨きには石榴の酢を要したので、屈んで入る「かがみいる(屈入)」を「かがみいる(鏡要)」にかけ、この名がついたもの〔醒睡笑・大言海〕。

出典:「精選版 日本国語大辞典」

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〇江戸時代の銭湯で、湯船と流し場とを仕切る板戸。湯がさめぬよう、また蒸気が逃げぬように造られたもので、
客は板戸の下の低い入口をくぐって薄暗い湯船へ入る。語源は、室町以降寛永ごろまでザクロの実の汁で鏡をみがいたから、〈かがみ入る〉としゃれたものという。 出典:平凡社「百科事典マイペディア」

〇江戸時代の銭湯で、浴槽の前方上部を覆うように仕切り、客がその下を腰をかがめてくぐり抜けて浴槽に
入るようにした入口のことをいう。湯がさめないように、狭い入口となっているのが特徴で、
明治以降は衛生的でないとして、この形式の銭湯は禁止された。 出典:「ブリタニカ国際大百科事典」

 

江戸の湯屋の見取図 湯屋のビジュアル図

『守貞謾稿』については下記参照。

 

石榴口の入口側 石榴口の湯舟側

 

石榴口。カラー 石榴口。カラー。女湯

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【追記1】

上記に掲載した江戸末期の湯屋(銭湯)の全体図は、『守貞謾稿』(もりさだまんこう)に描かれたもの。

『守貞謾稿』は、喜多川守貞によって書かれた、いわば江戸風俗事典。天保八年(1837年)作。

高座(当時は「番台」と言わなかった)は、女湯の板の間側にある。

男湯の方が見えないので、盗難防止のために、男湯側に見張りを置いた。

寛政の改革後は男女別湯になったにもかかわらず、浴槽だけが男女別で、

脱衣所、洗い場は男女の境がなく、ほとんど混浴同然だった。

 

【追記2】

イラストを見ると勘違いしてしまいますが、こんなに明るくはありません。

現代に暮らす我々は、夜でも照明が有って、昼間同様に明るいが当り前になっていますが、江戸時代の照明は、行灯あんどんぐらいしか無かった。

従って、湯屋の中は、昼間でも薄明り、夕方以降は相当暗かったと想像すべきです。

石榴口を潜った浴槽周辺は、真っ暗で、人の顔は判別不可能。

仮に男女混浴だったとしても、何も見えなかっただろうと思います。

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【参考】

湯屋(銭湯)がどれくらいあったか?

享和三年(1803年)には江戸市中に499軒、文化五年(1808年)には523軒、さらに文化十一年(1814年)には600軒あったそうです。

因に、内風呂や厠を屋敷内に設けているのは、武家屋敷や大店で、町屋、長屋は銭湯と共同厠。

つい昭和50年頃まで、長屋は、共同風呂、共同便所が珍しくなかった。

『金色夜叉』の素人研究。その1。―明治時代の新聞紙面―

金色夜叉こんじきやしゃ』は明治30年1月1日元旦から読売新聞に掲載された、尾崎紅葉おざきこうようの連載小説です。

読売新聞。明治30年元旦第1面 画像1.

当時の読売新聞。第1面に掲載された。

 

読売新聞(明治30年1月1日号)金色夜叉第1話
画像2. 当時の新聞の『金色夜叉』だけ抜き出した。

1日目(第1話)と2日目(第2話)は第1面に掲載された。3日目(第3話)は第3面に掲載されていました。

 

【眉雪の解説】

『金色夜叉』は、明治30年(1897年)元旦に、読売新聞で連載が始まった。

当時の新聞が画像1である。

現在の新聞の1ページの寸法は、縦545×横406㎜ですが、

明治30年(1897年)の読売新聞の1ページの寸法は、縦53×横37cmだったそうです。

僅か全6ページ。1ページ6段、1段22文字。

文字の大きさは、5号、縦3.5×横3.5㎜。

それをA3サイズ(縦420×横297㎜)に縮小コピーしたものを更に縮小してアップしました。

今でこそ読売新聞、朝日新聞は、全国区の大新聞ですが、明治時代ではどちらも二流でした。

それが、この『金色夜叉』の連載で読売新聞はかなり部数を伸ばしたそうです。

妬(やっか)んだのが朝日新聞。

二匹目の泥鰌を狙って、帝国大学(現・東京大学)から夏目漱石を引き抜きました。

まあ、引き抜いたと言うより、漱石は教師として不評だったんですね。

学生から突き上げを喰らってノイローゼ気味だった漱石は、友人の高浜虚子らに勧められて小説(『吾輩は猫である』など)を執筆したのが大当たり。

脚光を浴び始めた頃です。

因に尾崎紅葉、夏目漱石、正岡子規は同い年の帝大卒。

当時の印刷は、活版印刷で、一文字一文字の活版(活字)の判子を選び組み合せて文章を作った。
「文選」「植字」と呼び、手作業です。(画像3と4)

 画像3.「文選」

 画像4.「植字」

 

外国と異なり日本の場合、漢字とひらがな、カタカナがある。勿論、英数字も扱う。
漢字も現在の常用漢字の約2000字ではなく、6000字以上を扱っていた。

さらに総ルビを振っていたのである。

ルビを振っていたのは、大衆を相手にしていた新聞の必要な利便性、要するにサービスだったのだ。
この手間たるや大変なものであり、高度な職人技でした。

加えて、当時の小説家は、結構当て字を用いたので、気が抜けなかった。

26文字しかない英語圏とは、作業量が、その4倍、否、5倍以上違うだろうことは、容易に想像できますよね。

現在、コンピュータが導入され、パソコン画面で簡単にできるようになったので、
英語圏との差は小さくなったでしょうが、恐らく、活版印刷時代の職人技は、世界一だったに違いない。

昭和21年(1946年)に告示された当用漢字表に因り、新聞社はルビを振らなくてよくなった。
漢字数も3分の1以下になり、大幅に植字の作業量が減った。

と言うより、国語審議会の漢字制限の方針に大いに賛同し、広告、推進していたのだ。

今から考えると、商業主義に魂を抜かれた大いなる過ちであった。
それから僅か20年後にコンピュータが導入されようなどとは、想像していなかったからだ。

とにかく、明治時代の人たちの、毎朝楽しみにしていた、その息遣いを感じ取って頂ければ・・・

と、思うのです。