開高健『輝ける闇』に登場する山田氏の漢詩

『輝ける闇』は開高健が、ベトナム戦争中、ルポライターとして米軍に従軍した体験談を小説化したものである。

この中に出て来る七言絶句の漢詩がある。

日本新聞の山田氏が、主人公に餞別せんべつにと言って贈った自作の詩である。

山田氏は、北京官話と広東語の達人で、五年間香港に支局長として住み、論説委員に昇格して東京へ引き揚げた人物である。

書中では、読み下し文や現代口語訳が付されいないので、今回、私が意訳を試みた。

【原文】

臨風懐北無雁信
江水東流是那辺
惟見洋場梧桐老
何顔可待重逢筵

【拙訳】

北風を顔に受けて(北の戦場へ向った)君をおもうが、便たより無く。

長江ちょうこうの水の如く、今頃、君はどのあたりを漂って居るのだろうか。

洋場(外国人居留地)の神様の止まり木(行きつけの酒場)も枯れ落ちて(古びて)ゆく。

(僕と君は生きて再会できるのだろうか)僕はどんな顔をして、待っているのだろうか。

いや、待てるのだろうか。

また君と酌み交わす日を。

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『輝ける闇』 著者:開高健 発行所:新潮社 昭和43年(1968年)4月30日発行

七言絶句の漢詩は、単行本の84ページ目に記載あり。

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【語彙説明】

○臨風 ・・・ 風に向って。風に臨む。秋風に吹かれつつ〔参考:「臨風懐謝公」李白〕

○懐北 ・・・ 北をおもう。北をしのぶ。

臨風懐北=「風に臨んで北を懐わんとは」

○雁信 ・・・ 手紙

○江水東流 ・・・ 「長江の水がとうとうと東に向って流れ」〔参考:「襄陽歌」李白〕

○那辺 ・・・ どのあたり。どのへん。

是那辺=「是を那辺と」

○惟見 ・・・ 「これを見る」「だ見る」〔参考:「黄鶴楼にて~」作・李白〕

○洋場 ・・・ 西洋化した場所。

註:李香蘭のヒット曲に『十里洋場』がある。「十里洋場」は外灘(上海の観光エリア)にあった上海租界の別名。要するに外国人居留地。

○梧桐 ・・・ 梧桐あおぎり。あおぎり科の落葉高木。古代「神様(鳳凰)の止まり木」とされた。

○何顔 ・・・ 原文「愧我何顔看父老」読み下し「我何われなんかんばせあってか父老ふろうまみえん」

〔参考:『史記』の項羽の故事を踏まえている。『凱旋』作・乃木希典〕

○可待 ・・・ 「けんや」

○重逢筵 ・・・ 「重ねて筵に逢う」意味「また宴席で逢おう」

○重逢 ・・・ 原文「登山絶頂重逢嶺」読み下し「登山絶頂重ねて嶺に逢う」〔『途中怨』作・徐氏女〕

原文「知己重逢老蠹魚」読み下し「知己重ねて逢う老蠹魚」〔作・森春涛〕

老蠹魚(ろうとぎょ/しみ)・・・本ばかり読んでいる人。読んでも理解できない人を嘲笑して言う。

○筵 ・・・ 宴席。

原文「逮従幽荘尚歯筵」読み下し「幽荘ゆうそうの尚歯の筵にしたがふにおよびて」〔作・菅原道真〕

尚歯筵・・・老人を尊敬し、その高齢を祝うために、招いて催す宴。

名優りて質孱し/名勝りて質孱し

鴎外の漢詩の一片である。

【訓み下し文】一笑す 名優りて 質却って 孱きことを

【読み】いっしょうす めいまさりて しつかえって よわきことを

【訓み下し文】一笑す 名は優にして 質却つて 孱きことを

【読み】いっしょうす なはゆうにして しつかえって よわきことを

【訓み下し文】一笑す 名優 質却って 孱きことを

【読み】いっしょうす めいゆう しつかえって よわきことを

【眉雪の口語訳】(自分は)名誉を得たが、未だ中身が伴っていない。 一笑に付すべきだ。

【実際の意味】聞こえのいい学士号をもらったが、実際は、まだ浅学非才にすぎない。一笑に付すべきだと思う。

【語彙の読みと解釈】

実は、「名優」の読み方が、「めいゆう」と「めいまさりて」とに学者の見解が分かれている。

名優(めいゆう)の場合、「名優」とは名詞で「有名な俳優」のこと。

この「名優(めいゆう)」が、通説であった。(註1)

意味は、「聞こえがいい、または、エリート」と云うような比喩表現だろうと説明されている。

名優りて(めいまさりて)の場合、「名」は名詞で「優りて」は動詞。(註2)

小島憲之博士は、『ことばの重み-鴎外の謎を解く漢語-』の中で、「名(な)は優(ゆう)にして」と読む方がしぜんである。小説『舞姫』の中にも似た引用がある、と書かれている。

やはり、日本人としての肌合いからも、「名優(めいゆう)」はなかろう。

「名は優にして」または「名優りて」(めいまさりて)と読み下す方が極しぜんで解り易い、と感じる。

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【原文】一笑名優質却孱 依然古態聳吟肩

【訓み下し文】

一笑す 名(な)は優(いう)にして質却(しつかへ)つて孱(よわ)きことを、

依然(いぜん)たる古態(こたい)吟肩(ぎんけん)を聳(そび)やかす。

【出典】森鴎外『航西日記』の中の漢詩の一部抜粋

【参照】『ことばの重み-鴎外の謎を解く漢語-』 著・小島憲之 新潮選書 昭和59年(1984年)発行

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平成24年度 日本漢字能力検定試験1級(一)29問に 「名りて質孱し」と出題された。

恐らく「名優」論争に関わらない様、「優」を「勝」としたのではないか。

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【眉雪の追記】

〇「名優」論争に関係なく、この一行の大意は変わらない。

〇名優りて

名誉が実質に勝る=自分の実力より名誉が先行した、の意味。

〇鴎外が「一笑」した相手は自分自身であり、自分を戒めた意味。

現代で譬えると、弱冠十九歳の棋士・藤井聡太三冠(棋聖・王位・叡王)の謙虚な発言に散見される。「名優りて質孱し」の戒めと似た高い志を心中に秘めているに相違ない。

〇孱

〔音読み〕サン、セン
〔訓読み〕おと(る)、よわ(い)
〔意味〕1.よわい。小さくて弱々しい。2.おとる。おとっている。

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【註解】

註1.名優(めいゆう)と解釈した学者

神田孝夫教授(『若き鴎外と漢詩文』)

小堀桂一郎教授(『若き日の森鴎外』)

小田切進教授(『近代日本の日記』)

陳生保教授(『森鴎外の漢詩 上』)

 

註2.名優りて(めいまさりて)と解釈した学者

小島憲之のりゆき教授(『ことばの重みー鴎外の謎を解く漢語ー』)は、従来の解釈に異を唱え「名(な)は優(ゆう)にして」と新解釈を示した。

これに同調したのが神田孝夫教授。従来の主張を撤回し「一笑す 名(な)は優(ゆう)にして質却って孱(せん)なることを」とむことに改めたい、とした。