緑酒(りょくしゅ)

緑酒

【読み】りょく-しゅ

【意味】緑色を含んだ酒。良い酒。

説明の詳細は、このPDF画像で。緑酒01

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店・出版

【例文の出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 158頁 1行目と162頁 9行目

小兒/小児(しょうじ)

小兒/小児

【読み】しょうじ

一、ちひさい子。こども。幼者。

〔列子、湯問〕孔子東游、見兩小兒辯鬭。

〔史記、淮陰侯傳〕王素嫚無禮、今拜大将、如呼小兒耳。

〔漢書、西域下、車師後長城國傳〕殺校尉刁護及子男四人諸昆弟子男、獨遺婦女小兒。

二、自分の子をいふ謙辭。

〔呉志、孫皓傳、注〕小兒無徳致客、學者多貧、故爲廣被、庶可得與氣類接也。

〔北史、元行恭傳〕父文遙嘗謂盧師道曰、小兒比日微有所知、是大弟之力。

〔類書纂要〕自稱子曰賤息、又曰小兒・蠢頑・頑兒・小頑。

三、人を賤しめていふ語。つまらぬもの。小人。

〔晉書、陶潛傳〕吾豈能折腰、向郷里小兒耶。

〔老學庵筆記、六〕晉語、兒人二字通用、云云、陶淵明不欲束帯見郷里小兒、亦是以小人爲小兒耳、故宋書云郷里小人也。

四、小さい方の子。弟をいふ。轉じて、人物のすぐれた幼者をいふ。大兒の對。

〔後漢書、禰衡傳〕(禰衡)常稱曰、大兒孔文擧、小兒楊徳祖、餘子碌碌、莫足數也。

〔杜甫、徐卿二子歌〕大兒九齢色清徹、秋水爲紳玉爲骨、小兒五歳氣食牛、滿堂賓客皆廻頭。

五、唐代、給役の人をいふ。めしつかひ。こもの。

〔資治通鑑、唐紀〕(順宗、永貞元年)如宮市五坊小兒之類。

〔注〕小兒者、給役五坊者也、唐時給役者、多呼爲小兒、如苑監小兒・飛龍小兒・五坊小兒童、是也。

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店

【例文の出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 156頁

大兒/大児(たいじ)

大兒/大児

【読み】たいじ

【意味】

年の多い兒。兄をいふ。轉じて、二人のすぐれた人物のうちの年長者をいふ。

小兒の對。大兒小兒を見よ。

〔木蘭辭〕阿耶無大兒、木蘭無長兄。

〔楊萬里、詩〕大兒長孺赴零陵。

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店

【例文の出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 155頁

『大漢和辞典』の表記の「大兒小兒」PDF

大兒小兒/大児小児(たいじしょうじ)

大兒小兒/大児小児

【読み】たいじ-しょうじ

【意味】

兄と弟。轉じて、二人のすぐれた人物の長者を大兒、幼者を小兒といふ。

〔後漢書、禰衡傳〕衡唯善魯國孔融及弘農楊脩、常称曰、大兒孔文擧、小兒楊徳祖、餘子碌碌、莫足數也。

〔杜甫、最能行〕小兒學問止論語、大兒結束随商旅。

〔杜甫、徐卿二子歌〕君不見徐卿二子生絶奇、感應吉夢相追随、孔子釋氏親抱送、並是天上麒麟兒、大兒九齢色清徹、秋水爲神玉爲骨、小兒五歳氣食牛、滿堂賓客皆廻頭、吾知徐公百不憂、積善袞袞生公侯、丈夫生兒有如此、二雛者名位、豈肯卑微休。

【参照】『大漢和辞典』 大修館書店

【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 156頁

『大漢和辞典』の表記の「大兒小兒」PDF

儒冠各分ヲ守リ、紈袴ノ塵ヲ追ハズ

儒冠じゅかん おのおの まもリ、紈袴がんこちりハズ」(文1)とは、どんな意味か?

これだけ読んでも、残念ながら、ちっとも解らない。

この一文の元の文章を知って少し理解できる。

元の出典は、杜甫とほの詩にあった。

紈袴がんこ 餓死がしせず。儒冠じゅかん 多く身をあやまる。」(文2)

この意味は、

きぬ下穿したばきの貴公子きこうし餓死がしすることはないのに。学者は人生をはずすことが多い。」

と云うもの。

しかし、これだけじゃあ、ピンと来ない。

もう少し内容や背景をまで踏み込んでみる必要がある。

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【杜甫の詩の背景】

唐の第九代皇帝、玄宗げんそうは、国中から人材を集めようと科挙試験を実施したが、一人も合格者が出なかった。

時の宰相さいしょう李林甫りりんぽが、自分の地位を危ぶんだのだろう、不正操作した結果だと言われている。

昔はひどいことをしたもんですねえ。

あっ!そうか。今もチャイナは酷いや!あははは

杜甫は少年時代からその秀才振りは有名で将来を期待されていた。

本人も自覚しており、官吏を目指した。

杜甫は、有力者の宴席に顔を出したりなど、自ら売り込むと言う面白い働きかけをしている。

見え透いているが、可愛がられた。推薦を取り付け、科挙の受験に漕ぎつけた。

しかし、その甲斐かいなく(李林甫の不正操作の煽りを受けて)、合格できなかった。その落胆は察するに余りある。

その杜甫が、長安を去る時に世話になった韋左丞丈いさじょうじょうに宛てた詩(文2)の冒頭の二句が、これ。

杜甫の詩は、自虐的で情けない男を演じ、同情をく様な、ちょっと滑稽こっけいな文体なのである。

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【杜甫の詩の詳細】

〇「紈袴」とは、貴族の子弟の履くズボン或いは下着。「紈」は白い上質の絹。
『漢書』叙伝上に班固自身の出自のよさを言って、「綺襦(上半身に着る絹の下着)紈袴の間に在り」。
〇「儒冠」とは、儒者のかぶる冠。「儒冠」によって儒者、文筆を事とする者を表す。

二句は良家の子弟が困窮することはありえないのに対して、学問・文学に携わると落伍者になることをいう。
身分の高い者は「綺襦」で表すこともできるのに、あえて下半身に着ける「紈袴」で表し、低い者は逆に頭に着けるもので表している。
上下の転倒に皮肉か籠められる。加えて「袴」を下着に限定すれば、皮肉は更に増す。

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【文1の意味】

儒冠じゅかん おのおの まもリ、紈袴がんこちりハズ」とは、

「成り上がりの学者は、身分をわきまえ、貴族の子弟の仲間に成ろうなどとするべきではない」

と言う意味でしょうね。

貴族の子弟は、自分達の権利・役得を守ることに敏感で、能力の高い余所者を嫌う。

事実、杜甫の詩(文2)の後の句で登場する李邑は、杜甫が心から敬愛していたした人物だったが、冤罪によって殺されている。宰相・李林甫の陰謀だった。

この当時、玄宗皇帝は楊貴妃に惑溺わくできし国政がお留守。そのスキに李林甫は権力をほしいままにしていた。

必然的に時代は暗転していき、やがて安碌山あんろくざんの乱が起こって、国は滅びた。

いや~、毎度お馴染みの亡国の末路ですが、今のチャイナ、ロシア、北朝鮮の「悪党三ヶ国」も、この道を早く辿たどってくれないかなあ~、とねがうのは私ばかりじゃないでしょうね。あははは

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【出典】

〔原文〕儒冠各守分。不追紈袴塵。

〔訓読〕儒冠じゅかん各分おのおのぶまもリ、紈袴がんこちりハズ。

〔書籍〕『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 155~156頁

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【元の出典】

〔題〕奉贈韋左丞丈二十二韻。杜甫。

〔原文〕紈袴不餓死。儒冠多誤身。

〔訓読〕紈袴餓死せず。儒冠多く身を誤る。

〔現代語訳〕

韋左丞殿に贈り奉る。

絹の下穿きの貴公子が餓死することはないのに。学者は人生を踏み外すことが多い。

PDF形式の「奉贈韋左丞丈二十二韻」の一部

〔参照〕『新釈漢文大系 詩人編6 杜甫』 明治書院 48~56頁

學道成ること無く鬢已に華

【原文】學道無成鬢已華。

【読み下し文】學道がくどう成ること無く鬢已びんすで

【詩意】道を學んで成就じょうじゅせざるうちびんすで華白かはくとなる。

【出典】蘇東坡そとうばの詩「三朶花さんだか

全文のPDFは、こちら「三朶花」蘇東坡

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【眉雪の閑話ひまばなし

「鬢已華」の語句が『下谷叢話』にあった。

調べてみると蘇東坡の「三朶花」の冒頭の句であった。

〔出典〕『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 251頁 14行目

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【略歴】

蘇 軾(そ-しょく)/蘇 東坡(そ-とうば)

生年:1036年1月8日
没年:1101年8月24日、65歳没

チャイナ北宋の政治家、文豪、書家、画家。政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。

号は東坡居士(とうばこじ)、字は子瞻(しせん)、諡は文忠公。
号から、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、坡公や坡仙などの名で敬慕された。

江湖載酒とは

『下谷叢話』に「江湖載酒甘薄倖」の一文がある。

解説者の読み下し文では、「江湖こうこ酒ヲセテ薄倖はっこうあまンジ」としている。

「江湖」とはチャイナの揚子江ようすこう洞庭湖どうていこだろうと想像する。

しかし、『下谷叢話』の背景は、日本の関東周辺だ。

関西なら琵琶湖と淀川に模したものか、とも思うのだが、疑問である。

さて、この一文は、どう理解したら善いのか?

 

これは、杜牧とぼく七言絶句しちごんぜっく遣懐いかい」(おもいをる)の一句が元にある。

【原文】落魄江南載酒行

【読み下し文】江南こうなん落魄らくたくし 酒をせて行く

【現代口語文】水辺のさと江南で、自由奔放ほんぽうに遊んだ若き日々、どこに行くにも酒びたりであった。

【語彙説明】

〇落魄・・・「ラクタク」と読み、自由気まま、放縦不羈ほうしょうふきを表わす。通常の「ラクハク――落ちぶれて漂泊ひょうはくする」意味ではない。
『才調集』は「落托」、晩唐の孟棨『本事詩』高逸篇は「落拓」としている。

〇江・・・揚州・宣州・洪州などの地を指す。
晩唐の高彦休『唐闕史』(『太平広記』所引)・『本事詩』・『唐音統籤』などは、「江」としている。

【参照】『杜牧詩選』 岩波文庫 2004年12月15日第2刷

PDFで「遣懐」全文と解説は、こちら

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「江湖載酒甘薄倖」

解説者の読み下し文「江湖こうこ酒ヲセテ薄倖はっこうあまンジ」。

【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 135頁 1行目と13行目

楼鐙/樓鐙(ろうとう)とは

楼鐙/樓鐙

【読み】ろう – とう

【意味】樓(楼)中のともし火。又、樓(楼)上で火をともす。

〔風俗通、怪神〕未冥、樓鐙、階下腹有火。

【参照】『大漢和辞典』大修館書店

【補足】「樓中/楼中」(ろうちゅう)とは、「たかどののなか」のこと。

高殿(たかどの)とは、「高く造られた建物。とくに御殿。高楼」

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【追記】

『下谷叢話』に「楼灯ろうとう」という熟語が使われている。原文では「樓燈」。

複数の辞典で調べても、こんな熟語は見当たらない。

著者が樓鐙ろうとう」と書くべきところを「樓燈」と書いてしまったのであろう。

「鐙」の金篇を火篇と書いて「燈」としたのではないか。

「灯」と「楼」の前後入れ替えて「灯楼とうろう」の間違い、とも考えられるが、前者の方がしぜんである。

灯籠・・・灯楼とも書く。戸外用の灯火器。風から守るため,火炎部を囲う構造(火袋)をもつ。

「鐙」は、通常、馬の「あぶみ」として知られているが、「ともし火」の意味も持つ。

【出典】『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 122頁 2行目

曲欄(きょくらん)

曲欄

【読み】きょくらん

【意味】曲線を描いた欄干。

【例文】

*六如庵詩鈔-二編(1797)二・嵯峨別業四時雑興三十首

「消遣清愁倚曲欄、亭高山気送二星寒」

*虞美人草(1907) <夏目漱石>一一

「楼を描き、廻廊を描き、曲欄(キョクラン)を描き」

*白居易-題岳陽楼詩

「岳陽城下水漫漫、独上危楼凭曲欄」

 

曲欄

 

晃峰(こうほう)とは

晃峰

【読み】こうほう

【意味】晃は、日光の合字。よって、日光山の峰のこと。

【例文】雀宮ヲ過ルヤ晃峰ヲ乾位ニ望ム

〔読み〕すずめのみや を すぐ るや こうほう を けんい に のぞ む

〔意味〕雀宮駅(宿場)を過ぎると日光山の峰が北西にみえる。

「雀宮」は、奥州街道の宿場の一つ。日光街道沿いに「雀宮本陣跡」碑石がある。

「乾位」の乾は八卦の一つ。方位としては北西を示す。

〔出典〕『下谷叢話』第三十八章 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 222頁 13行目

〔元の出典〕『赴任日録』 鷲津毅堂・著

〔註〕例文が漢字カタカナ交りになっているのは、元の漢文漢詩を読み下し文にした為。漢字の読み假名は、音訓共にひらがな、送り假名をカタカナ表記している。

 

【詳細】

「晃峰」の晃は、元々有る漢字で、「あきらか。かがやく。ひかる。」の意味をもつ。

日本では、日と光の二字を合併して、日光の合字としても用い、日光山を晃山とした。

 

「晃峰」大漢和辞典

漢詩は近体詩が主流であり、固有名詞を二字に収める工夫をしている。

奈良時代に発布された「好字二字化令」も固有名詞の二字化に寄与した。

富士山は三文字なので漢詩漢文では、「富峰ふほう」「富岳ふがく」「富嶽ふがく」「士山しさん」「不二ふじ」「芙蓉ふよう」「蓮岳れんがく」など二文字で表現している。

「芙蓉」「蓮岳」は、富士山の頂上に八つの峰があって八弁の蓮華れんげ(芙蓉とも)に似ていることから。

「士山」は、全国調べても富士山しかない。「不二」は、この世に二つと無いという意味だそうだ。

比叡山は、「叡山」「北嶺」。

比良山は「比良」。

越後(今の新潟県)と越中(今の富山県)の山々を「越山」。

飛騨山脈北西部の連峰を「立山」など。

日光山(男体山なんたいさん二荒山ふたらさんとも呼ぶ)も三文字である。よって、「晃山」を作ったと思われる。

二荒山は、古称。弘法大師が音読みで「にこう」と読み、それを「日光」として今日に至ると『日光山縁起』にある。

因みに、『下谷叢話』の中で大沼枕山は、隅田川を「墨川ぼくせん」としている。

 

【雀宮から北西に観た山々を地図で確認】

日光山を北西に観る

雀宮から北西を遠望すると、男体山(日光山)が真正面に観える。

 

【『赴任日録』は『毅堂丙集 巻三』に残されている】

「毅堂丙集」巻三の一部

元々は漢文で書かれていたものを永井荷風が『下谷叢話』で読み下し文にした。

 

【眉雪の独言】

当初、晃峰は「かがやく峰」の意味だろうと思っていた。結果は「晃」が日光のことで固有名詞だった。

ここまで辿り着くのに、2月頃から調べて、約9ケ月かかった。

 

いや~、顔面蒼白、汗顔の至り、穴が有ったら入りたい。

「駅」を鉄道の駅とばかり思い込んでいた。宿場のことであった。「駅吏」の記述で気付きそうなものだが・・・

日本で鉄道が初めて開通したのは明治5年で、鷲津毅堂が赴任先・登米県とよまけん(現・宮城県北東部)へ出発したのは明治2年!

汽車なんか走っている訳がない!