方大鎮(ほうだいちん)とは

方 大鎭/方 大鎮

【読み】ほう – だいちん

明の時代。桐城の人。

字:君靜(くんせい)。號:野同翁。

萬暦の進士。官は大理寺少卿。

著書:『荷薪義』『田居乙記』

〔萬斯同明史、三百六十一〕・〔蘭臺法鑒綠、二十〕・〔明人小傳、三〕・〔明詩綜、五十五〕・〔四庫提要、九十六・一百三十二〕。

 

『大漢和辞典』表記の「方大鎭/君靜」PDF

大沢順軒(おおさわじゅんけん)

大沢順軒/大澤順軒

〔読み〕おおさわ – じゅんけん

漢学者

〔生没〕生没年未詳。天保(1830~1844)頃の人。

〔名号〕名:定永。字:子世。通称:秀之助。号:順軒。

〔経歴〕江戸根岸庚申塚に住す。

〔著作〕『台桜雑詠』〈天保十一刊〉

〔参考〕広益諸家人名録(天保十三)

【参照】『国書人名辞典』岩波書店

南郭子綦(なんかくしき)とは

南郭子綦/南郭子葵

【読み】なん-かくしき

古人の名。孔子の弟子。
子游等と同時の人。南伯子綦を見よ。
〔莊子、齊物論〕南郭子纂、隱几而坐、仰天而嘘。
〔釋文〕司馬云、居南郭、因爲號。

【眉雪の追記】

楚の昭王の庶弟(異母弟)。南郭は子綦が住んでいた所。

〔『新釈漢文大系』第7巻 老子・荘子(上)『斉物論』篇 p.152〕

南伯子綦/南伯子葵

【読み】なん-ぱくしき

戰國の人。南丘に遊んで大木を見、其の不材なるが故に、却って其の眞に大なるを知る。
又、南子綦・南子葵に作る。〔荘子、齊物論・人閒世・大宗師〕

【眉雪の追記】

『荘子』の中で

「南子綦は、南子綦(斉物論にみえる)と同じ。「伯」は長。従う道が貴く、物の長となりうるので、伯という。」

と解説されている。〔『新釈漢文大系』第7巻 老子・荘子(上)『内篇 人間世第四』篇 p.220〕

『荘子』の中で

「南伯子は、南郭子の誤りであろう。」

と、解説されている。〔『新釈漢文大系』第7巻 老子・荘子(上)『内篇 人間世第四』篇 p.259〕

『大漢和辞典』の表記の「南郭子綦」PDF

太田行蔵(おおた こうぞう)

太田 行藏

【読み】おおた こうぞう/おほた かうざう

【略歴】

明治28年(1895年)生れ。(長野県)信州伊那出身。

大正6年 国学院大師範科卒。

旧制甲府中学~諏訪~松本高女学校教師を経て片倉工業学園講師。

昭和46年 国語問題協議会理事。

平成2年(1990年)2月 逝去、95歳。

【著書及び監修編集】

『登山』  健文社 昭和4年(1929年)
『憧れのキャンピング』 健文社 昭和6年(1931年)
『國文の單語』〔編集〕 開隆堂書店 昭和11年(1936年)
『國文法指針 學習受験』 健文社 昭和11年(1936年)
『國語敎育の現狀』 白水社 昭和16年(1941年)

『現代假名遣批判と今後の國語敎育』 日本弘報社 昭和23年(1948年)

→ 表紙 目次 本文 補足1 補足2

『國語の擁護 現代假名遣ひを駁す』〔共著〕 城北書房 昭和23年(1948年)
『日本語を愛する人に』 三光社 昭和31年(1956年)
『人間土屋文明論』 短歌新聞社 昭和46年(1971年)
『小倉百人一首』〔監修〕 三弥井書店 昭和48年(1973年)

冬雷創刊60周年記念刊行の文庫版
『現代仮名遣い表記「四斗樽」圧縮版』 冬雷短歌会・発行 令和3年(2021年)

【眉雪の独言】

太田行蔵氏の略歴がネット上に見当たらなかったので、未完成だが、取り急ぎ記事にした。

梅原芳堂(うめはら ほうどう)

梅原芳堂

読み:うめはら ほうどう

生年月日:1885年3月1日(明治18年3月1日)

没年月日:1961年9月24日(昭和36六年9月24日)、没76歳。

出生地:山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。

本名「成美」のち「芳堂」と号す。

〔全て『徳山の文化に貢献せし人々』を参照〕

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芳堂年譜
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明治18年(1885年)3月1日 山口県吉敷郡嘉川村字岡屋。医家梅原氏五世として出生。本名成美、のち芳堂と号す。
明治24年(1891年)4月4日 6歳。嘉川村立興進小学校入学。
明治37年(1904年)4月一一  18歳。 山口中学卒業。
明治43年(1910年) 一一  25歳。 熊本医学専門学校卒。
明治44年(1911年)6月28日 26歳。宇部藤田家長女春枝と結婚。下関市黒石堂病院勤務。
明治45年(1912年)3月一一   27歳。大阪緒方病院勤務。

大正元年(1912年)12月16日   27歳。長男亨出生。
大正三年(1914年)5月一一  29歳。高知市中島病院耳鼻科部長勤務。
大正四年(1915年)2月12日   29歳。次男博人出生。
大正五年(1916年)8月――   31歳。徳山町東浜崎に開業。
大正六年(1917年)1月3日   31歳。三男輝出生。
大正九年(1920年)5月16日  35歳。四男昌美出生。
大正元年(1922年)1月23日  36歳。五男芳人出生。熊本医科大学耳鼻咽喉科入局。
大正十五年(1926年)5月――  41歳。文芸詩「つゞみ」(津々美)創刊、のち「草笛」と改題。

昭和二年(1927年)10月19日  42歳。周南医学会を創設。
昭和七年(1932年)5月1日  47歳。第十九回県医学会準備委員長。
昭和十一年(1936年) ――  51歳。徳山市医師会長。
昭和七年(1941年)5月4日  56歳。第廿八山口県医学会副会長。
昭和十八年(1943年)1月29日 58歳。山口県医師会理事。
昭和二十年(1945年)5月2日  60歳。五男芳人戦死。
昭和二十二年(1947年)6月23日  62歳。初孫美枝子出生。
昭和三十三年(1958年)4月  73歳。芳堂随筆『落暉を浴びて』刊行。
昭和三十六年(1961年)9月24日  76歳。薄月庵にて永眠。

昭和三十七年(1962年)3月。芳堂遺稿編集委員会が『枯尾花』を刊行。

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あ と が き
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芳堂梅原成美先生は、医家五世として生れ、幼少から文才に秀で中学時代の作品「秋の
なやみ」が現代名家文集に採録された頃から、文学立身か、医家継承か、と悩んだのち後
者を選んだ。
私が先生を知ったのは、終戦まもない頃ひらかれた徳山医師会の席上であるが、刀圭界
における輝かしい業績と識見とその風格は、全会員の尊敬を一身にあつめて、先生のある
ところ、路傍のゆきずり諸種の会合をとわず、和気藹々の雰囲気につゝまれていた。
杏林界における活躍のかたわら、趣味としてものした作品は、多面に亘り膨大なものと
なつて、独特の芳堂文学を形成し、かねてから徳山文化のためにと、繁忙をさいて、作品
集を克明にまとめあげていたが、之等はすべて、大東亜終戦直前の徳山煤災にあつて、惜
しくも家財道具一切と共に烏有に帰した。
晩年になって、初一念貫徹の気が汕然として再燃し、昭和三十三年迎春と共に、芳堂
随筆「落暉を浴びて」を刊行してからは、その情熱を”徳山の文化に貢献せし人々”なら
びに句詩集”枯尾花”の資料収集と採録に頷けたが、業なかばにして、二豎の冒かすとこ
ろとなり、遂に昭和三十六年九月二十四日、こう焉(溘焉)として逝かれた。
悲涙の未だ乾かないうらに、先生の遺徳は、芳堂文学賞の制定や、芳偲会の結成となっ
て現われ、二つに分けられていた遺稿も、有志が相寄って、翌年の陽春に第一部「枯尾
花」が世に送られた。
これに引き続いて第二部の編集にとりかかり、多岐に亘る資料の整理、考証、配列や写
真の蒐集は予想以上に手間どって、四年後の今日漸くまとめあげたが、この間、原文には
つとめて忠実に当ったものゝ、不備の点は編集責任者としての私が負うべきもので、切に
寛容を賜りたい。
ともあれ芳堂遺稿「徳山の文化に貢献せし人々」は単なる郷土史ではない、文化の砂漢
をして、緑林たらしめんとの悲願に結集された、芳堂文学の絶篇である。………げに「人
生は短かしされど芸術は永し」という言葉の通り、先生の名は、郷土丈化史上に永く特記
されて、周南の躍進と共に仰がれるであろう。
最後に、遺稿編集についていろいろ激励を戴いた芳偲会の方々に深謝し、職繁をいとわず終始尽力下さった委員を素描として厚意を明記したい。

玉野由槻雄 ―― 優雅繊細な周南の歌人、本書中の写真収録が示す通りカメラも玄人。

田村展祥 ――  柔和誠実で本書でも水際立った編集ぶり、らしからぬ新聞人、旬も作る。

原田光之 ―― 素朴実直さはよく周囲を感化、芳堂著書全篇を印刷、仏教心に富む。

松村 勇 ―― 緻密堅実で近代的感覺に優れた文人、芳堂著書全篇の発行所を担当。

昭和四十年三月

吐禅荘  磯村 仁

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参照文献
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『徳山の文化に貢献せし人々』

昭和四十年二月十五日印刷(五百部限定)
昭和四十年三月一日発行(非売品)
山口県徳山市梅園町 薄月庵
著 者  梅 原 芳 堂
山口県徳山市代々木通一丁目
発行者  梅 原   亨
山口県徳山巾久米 共楽園印刷課
印刷者  原  田  光  之
発行所
徳山市本町一ノ六マッノ書店 電話②二一九五番
芳堂遺稿編集委員会

藤原春海(ふじわらのはるみ)

藤原朝臣春海

読み:ふじわらの(あそん)はるみ

性別:男性

生没年:未詳

父親:藤原吉備雄 母親:滋野貞主の娘

階位:従五位上

大学頭・文学博士

【詳細】

北家内麻呂流、吉備雄の子。

大学に学び、文章得業生となり、仁和二年(886年)方略試を受ける。

この時の対策が『本朝文粋』に入る。

寛平元年(889年)正月の宇多天皇主宰の内宴に序者となる。時に少内記。

同三年七月、三統理平の方略試の問題博士を勤める。時に式部大丞。そののち下野守に転じる。

延喜元年(901年)秋、藤原時平が主宰した大蔵善行七十賀宴に列なり頌寿の詩を詠作する。

同二年文章博士となる。

同四年(904年)から始められた『日本書紀』講書では講博士として講書を行い、『延喜四年私記』(散佚)を草した。その頃、大学頭。延喜六年、講書が完了し、竟宴が行われたが、その竟宴和歌に詠歌。従五位上に至る。『雑言奉和』に詩二首が残る。

【参照】

『新日本古典文学大系27 本朝文粋』 1992年5月28日発行  岩波書店 p.396

江戸時代の色男「丹次郎」

丹次郎(たんじろう)とは『春色梅児誉美』の主人公。複数の女性に愛され、色男の代名詞となった。

『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ)は、江戸時代の人情本。

為永春水ためながしゅんすい・作。『春色梅暦』とも表記する。『梅暦』とも略称される。

1832年(天保3年) – 1833年(天保4年)刊行。4編12冊。柳川重信・柳川重山画。

美男子の丹次郎と女たちとの三角関係を描いたもの。人情本の代表作と言われる。

丹次郎と米八と仇吉

〔概要〕

1829年(文政12年)の火事で焼け出された春水が、単独で再起をかけた作品で、人情本の代表作とされる。

吉原と深川の芸者、女浄瑠璃、女髪結と、当時の注目を集めた女性を配し、恋愛の諸相を巧みな会話文とともに描いて人気を博した。

その人気は、米八と仇吉の錦絵が出版されたり、名古屋の芸者が米八と名前を変えたり、丹次郎が色男の代名詞となったりするほどであった。

この作品で、春水は戯作者としての名を高めた。

内容は、江戸の町を背景に悪巧みによって隠棲生活を強いられている唐琴屋からことやの美青年丹次郎を慕う芸者・米八、仇吉の2人と、許婚いいなづけのお長との交渉を描いている。

劉安(りゅうあん)

劉 安(りゅう あん、男性、紀元前179年~紀元前122年、57歳没)

前漢の皇族・学者である。淮南王わいなんおうに封じられた。
『淮南子(えなんじ)』の主著者。
後世、劉安には多くの伝説が生まれた。

註:『三國志演戯』に登場する架空の「劉安」とは異なる。

班固(はんこ)

班 固(はん こ、男性、紀元後32年(建武8年)~92年(永元4年)、60歳没)

中国後漢初期の歴史家・文学者。字は孟堅。

父は班彪。班超は弟。班昭は妹。班勇の伯父。

『漢書』の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。

『後漢書』班彪列伝によると、班固は右扶風安陵県の人であり、若いころから文章に優れていた。
父の班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに『史記』の『後伝』65編を編纂していた。
建武30年(54年)に父が没した後、班固はその遺志をついで歴史書を編纂していたが、
「ひそかに国史を改作しようとしている」と告発されて投獄された。

弟の班超が明帝に上書したところ、冤罪として班固は許され、高く評価されて蘭台令史の職に就けられた。
後に典校秘書に遷(うつ)った。
班固は『世祖本紀』(後の『東観漢記』の一部)を共同で編纂した。
『漢書』はその後20年ほどかけて粗(ほぼ)完成したが、未完の部分を妹の班昭が引き継いで完成させた。

盧州 池田四郎次郎

池田蘆洲

〔いけだ ろしゅう、元治元年(1864)6月19日~昭和8年(1933)70歳没〕

漢学者。名はいんあざな公承こうしょう、通称は四郎次郎、蘆洲ろしゅうと号した。

大阪の人。東京に出て、三島中洲ちゅうしゅうの門に入り、陽明学を主とし、二松学舎専門学校、国学院大学の教授となる。

編著には、未完に終わった『史記補注』130巻のほか、『日本詩話叢書』10冊、『日本芸林叢書』10冊が刊行されている。

とくに『故事熟語大辞典』(1909初版)は、その後改定を加えて畢生ひっせいなりわいとなったが、
典拠を明示した類書の濫觴らんしょうとして、高く評価されている。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)