矉ニ效フ(ひんにならふ)

矉ニ效フ

【読み】ひん に なら ふ 〔口語:ひんにならう〕

【意味】(『大漢和辞典』より)

古、越の美女西施が胸の痛のために顔をしかめたのを見て、其の里の醜婦みな之にまねて矉したので、里人が驚いて逃げ去つたといふ故事。
是非善悪を考へず強ひて他のまねをする喩。

〔荘子、天運〕西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里、
其里之富人見之、堅閉門而不出貧人見之、挈妻子而去之走、彼知美矉而不知矉
之所以美。

〔李白、效古詩〕蜂眉不可妬、況乃效其矉。

【他の辞書の解説】

善し悪しも考えずに、やたらに人のまねをする。また、他人にならって物事をするのを謙遜していう言葉。《「荘子」天運》

【類義語】顰に倣う(ひそみにならう)

 

效矉(ひんにならう)

四矢反セズ(ししはんセズ)

四矢反セズ

【読み】ししはんせず

【意味】『詩経』斉風「猗嗟」の句に基づく表現で、反は矢が反復して同じ場所に当たること。

出典:『下谷叢話』 永井荷風・著 岩波文庫 2000年9月14日発行 15頁 14行目

「先生射ヲ善クシ、四矢反セズトイヘドモイマダカツテまとヲ出デズ。」

〔意訳〕「先生は(矢を)射るのが上手く、四本の矢が同じ所に当たる程ではないが、(直径36㎝の)的を外すことはない。」

意味は文庫本の「注」語彙説明(260頁)を引用。

【原典】

『詩経』斉風「猗嗟いさ」より一部抜粋(『新釈漢文大系』を参照)

〔原文〕

四矢反兮 以禦亂兮

〔読み下し文〕

四矢反ししかへる もつらんふせ

〔現代口語文〕

四矢はみごとに重なる。国の乱れを禦ぐに足る頼もしい人よ。

〔意味〕

「四矢」は、射儀に用いる四本の矢の意(毛伝・集伝)。

「反」は、四本の矢が皆同じところにかへるの意、つまり四矢が重なり合って的中することをいう。

毛伝鄭箋の「反は復るなり。礼射は三たびして止む。射る毎に四矢、皆其の故処を得。此を之れ復と謂ふ。射は必ず四矢とは、其の能く四方の乱を禦ぐに象る」、屈万里の「反は復なり。四矢皆重複して一処より出づるを謂ふ」による。

林義光は的にたった矢をばっして、また射る、これを四回くり返しても四矢がすべて同じところにたるとする。

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苫に寝ね楯を枕とす/苫に寝ね戟を枕とす

苫に寝ね楯を枕とす/苫に寝ね戟を枕とす

【読み】とまに いね たて を まくらとす/とまに いね ほこ を まくらとす

【意味】苫の上に寝ねて、武器を枕として眠る。山野に露営して苦労すること。

苫(とま)・・・菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。

苫に寝ね楯を枕とす

人生は歩く影/人生は動く影/人生は歩きまわる影法師

人生は歩く影、哀れな役者に過ぎない。/人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。

【原文】 Life’s but a walking shadow, a poor player.

【真意】人間というのは影のようにはかない存在で、哀れな役を演じているにすぎない。
運命に対する人間の無力さを表現している。

【解説】シェイクスピアの名言の一つ。
『マクベス』は、スコットランドの将軍マクベスを主人公とした悲劇です。彼は妻と共謀してスコットランド王ダンカンを殺し、王位に就く。ところが、様々な重圧に耐えられずに錯乱して暴政を行い、王子や貴族の復讐に敗れてしまう。マクベスが追い詰められ、最後の頼みの綱だった妻の死を突きつけられた際の台詞。

ウィリアム・シェイクスピア
(16~17世紀イギリスの劇作家・詩人、1564~1616、享年51歳)

シェイクスピア

簡潔こそは、智慧の心臓である。/簡潔こそが叡智の真髄である。

簡潔こそは、智慧(ちえ)の心臓である。/簡潔こそが叡智(えいち)の真髄である。

【原文】 Brevity is the soul of wit.

「簡潔さは言葉の命」と和訳する人も居ますが、これでは響かない。

短い話、簡潔な文章を心掛けたい。

【出典】シェイクスピア『ハムレット』

【追記】内大臣ポロニウスが、王のクラウディウスと王妃のゲルト・ルードに、彼らの息子ハムレットの精神状態を説明している場面。

福田恒存の名訳。

原文の前後:
Therefore, since brevity is the soul of wit.
And tediousness is limb and outward flourishes, I will be brief.

Your noble son is mad…….
和訳:
したがひまして、簡潔こそは、智慧の心臓、冗漫はその手足、飾りにすぎませぬがゆゑに、ひとつ手っとり早いところを申しあげます。

—- 王子ハムレット様は気ちがひ、はいあへて気ちがひと申しあげまする。—–

ウィリアム・シェイクスピア
(16~17世紀イギリスの劇作家・詩人、1564~1616、享年51歳)

羞恥は青春の飾りであるが、老年では滑稽である。

羞恥は青春の飾りであるが、老年では滑稽である。

【読み】しゅうちは せいしゅんのかざりであるが、ろうねんは こっけいである
【意味】若い人が恥ずかしがるのは美しくもあるが、年寄りが恥ずかしがって主張すべきことも主張できなくてはお粗末。
人は年齢相応の言動が大切である。

アリストテレス(BC384~323、ギリシャ哲学者)

苫に寝ね土塊を枕とす

苫に寝ね土塊を枕とす

【読み】とま に いね つちくれ を まくら とす
【意味】親の喪中、子たるもの、その親の土に在るものと思って倚廬(いろ)に在りて苫を被り、土塊を枕として寝る。
<儒教の葬送儀礼>
【典拠】古代中国の儒教文献『儀礼』の「既夕」の項目。

倚廬(いろ)・・・天子が父母の喪に服するときにこもる仮屋。
苫(とま)・・・菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。

日西山に薄りて、気息奄々たり

日西山に薄りて、気息奄々たり

【読み】ひ、せいざんに せまりて、きそくえんえんたり

【意味】日(陽)が西の山にせまって、やがて没せんとするのに似て、息も絶え絶えの状況です。

【真意】老い先短く、死期が迫っているというたとえ。

【背景】晋の泰始(265~274年)中、李密は、武帝に召されて太子洗馬に除せられたが、年老いた祖母を面倒看なければならない故、詔を拝辞する意の上奏文がこの『陳情表』で、大意は次の通りである。

「私が居なければ高齢で死に瀕した祖母は余年を終え天寿を全うすることはできない。

孝道を以て天下を納めんとする陛下は、この私の苦衷を察して私の申し出を許して欲しい。

さすれば、祖母の死後は陛下にお仕えし節を尽くす御恩に報いる覚悟です。」

今回の「日西山に薄りて~」は、この中の上奏文の一節にあるものです。

【原文】

伏惟、聖朝以孝治天下。凡在故老、猶蒙矜育。

況臣孤苦、特為尤甚、且臣少仕偽朝、歴職郎署。

本圖宦達、不矜名節、今臣亡国賎不俘、至微至陋。

過蒙抜擢、寵命優渥。

豈敢盤桓、有所希翼。

但以劉日薄西山、気息奄々。

人命危浅、朝不慮夕。

【読み下し文】

ふししておもんみるに、聖朝せいちょうこうもって天下を治む。

おおよ故老ころうにありても、なお矜育きょういくこうむる。

いわんしん孤苦こくなる、とくもっとはなはだしとすをや。

しんわかくして偽朝ぎちょうつかえ、しょく郎署ろうしょたり。

もとより宦達かんたつはかりて、名節めいせつほこらず。

いましん亡国ぼうこく賤俘せんぷにして、至微至陋しびしろうなり。

あやまって抜擢ばってきこうむり、寵命優渥ちょうめいいあくなり。

あにえて盤桓ばんかんして、希翼ききするところらんや。

おもうに、りゅう西山せいざんせまりて、気息奄々きそくえんえんたり。

あさゆうべをはかられず。

【現代口語訳】

伏して思いますに、聖朝は孝の道徳を本として天下を治められます。

およそ有徳の高齢者は一段の憐れみと養いの恩恵を蒙っております。

まして臣のように孤立困苦の特に甚だしい者に至っては、なおさらお上の憐れみを頂けるはずであります。

それに臣は若くして偽りの朝廷であった蜀に仕え、尚書郎の官職を経ました。

臣はもとより官界での栄達を望みとし、民間において名誉や節操を誇ることは考えておりません。

今、臣は亡国の賤しい俘虜であって、至って微力の、至って下賤の身であります。

しかし、過ってこのような抜擢を蒙り、恵み深い恩命を拝しました。

どうしてぐずぐずとためらい渋って、他に何を願い望むことがありましょうか。

ただ思いますに、祖母の劉の寿命は、日(太陽)が西の山にせまってやがて没せんとするのに似て、息も絶え絶えの状況であります。

人の生命ははかなく危ういものですから、朝に夕べのことが予測できません。

【出典】李密『陳情表』 より一部抜粋

【参照】『新釈漢文大系 第82巻 文選(文章篇)上』 平成6年7月15日初版 p.289~294

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【解説】

西山(せいざん)・・・「西山」は中国、北京市の西郊一帯の山地を示す場合もあるが、今回の場合は、「せいざん」と音読みするものの「日」が西日(陽)を指し、太陽が沈む「西の山」(にしのやま)の意味。

抑々そもそも、北京市の「西山(せいざん)」を李密が住む成都(蜀)からは到底望見することは出来ない。

 

 

李 密(り みつ、224年~287年)蜀漢・西晋に仕えた政治家。

西暦267年、西晋の初代皇帝となった司馬炎によって招聘された。だが、90歳を過ぎた祖母を置いて洛陽へ行くわけにはいかず、かといって勅命に背くわけにもいかなかった。

そこで李密は司馬炎に宛て、後世に『陳情表』(ちんじょうのひょう)と呼ばれる上奏文を表した。
祖母を思う李密の心情に心動かされた司馬炎は、州県に李密と祖母を手厚く保護するように命じた。