畳紙/帖紙(たとう‐がみ/たとうし/たとう)とは

畳紙/帖紙

【読み】たとう‐がみ/たとうし/たとう/たたう‐がみ

【意味】〘名〙(「たたみがみ」の変化した語)

1.檀紙だんしとり子紙こがみなどの紙を折りたたんだもの。懐中して鼻紙また歌の詠草えいそうにも用いる。ふところがみ。懐紙かいし。たとう。

2.厚い和紙にしぶうるしを塗って折りめをつけた丈夫じょうぶな包み紙。和服・小ぎれ・女の結髪の道具などを包むもの。たとう。

註:檀紙(だんし)・・・大正時代頃まで用いられていた最高品位の儀礼用の和紙。

註:鳥の子紙(とりのこがみ)・・・和紙の一つ。単に「鳥の子」ともいい、紙面がなめらかで鶏卵のような淡黄色の光沢があるので、こう呼ばれる。

註:詠草(えいそう)・・・作った和歌や俳諧を紙に書きつけた草稿。

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畳紙

【読み】たとうがみ

【意味】

折り畳んで懐中に入れ、歌などを書いたり、鼻紙に用いたりした紙。
「たたんがみ」ともいい、平安から江戸時代までの文学作品にもきわめて多くの用例が出てくる。

最初は教養のある者のたしなみとして、公家くげ社会では檀紙だんし(陸奥紙)みちのくがみなどを愛用したが、武家社会になると杉原紙すぎはらしが好まれるなど、時代によって用いられる紙の種類や折り畳み方などに変化がみられる。

日葡にっぽじしょ辞書』(1603年)にも採録されている。

また近代ではくしなどを入れるための、うるししぶなどを塗った厚紙を折り畳んだものを呼ぶ場合もある。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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畳紙

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関連: 切畳紙、裁片畳(きれたとう)

猫柳、狗子柳、狗尾柳(ねこやなぎ、えのこやなぎ、えのころやなぎ)

「ネコヤナギ」は「猫柳」と書き(学名: Salix gracilistyla)、ヤナギ科ヤナギ属の落葉低木。

山間部の渓流から町中の小川まで、広く川辺に自生する、ヤナギの一種である。

和名「ネコヤナギ」の由来は、やわらかい銀白色の毛に覆われた花穂がネコの尻尾に連想させることから、この名がある。

別名で「エノコヤナギ」「エノコロヤナギ」「イノコロヤナギ」「カワヤナギ」とも呼ばれる。

地方によって呼称が異なり、「ネコネコ」「ネコジャラシ」「ネコノマクラ」「ニャンコノキ」といった猫と結びついた呼称や、「イヌコロ」「エノコロ」「インコロ」「イノコロヤナギ」といった犬と結びついた呼称が知られるほか、東北では「ベコ」「ベコベコ」「ベコヤナギ」といった牛と結びついた呼称が見られる。

「エノコ」は、漢字で「犬子」「犬児」「狗児」「狗子」などと表記し、

「エノコヤナギ」または「エノコロヤナギ」は、「狗子柳」「狗尾柳」と書く。

 

ネコヤナギ(猫柳)

 

 

石榴口(ざくろぐち)とは

石榴口(ざくろ-ぐち)

1.江戸時代の銭湯の、洗い場から浴槽への出入り口。
湯のさめるのを防ぐため、浴槽を板戸で仕切り、その下部を開けて身体を屈めて出入りするように造ったもの。じゃくろぐち。

咄本・吟咄川(1773年)せん湯「せんとうへゆき、まっぱだかになりてざくろ口から」

滑稽本・浮世風呂‐前・序「目に見えぬ鬼神を隻腕(かたうで)に雕(ゑり)たる侠客(ちうつはら)も、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや」

2.(石榴の実がはじけるように) 裂けて開いた口。はぜぐち。

語源説:当時、鏡磨きには石榴の酢を要したので、屈んで入る「かがみいる(屈入)」を「かがみいる(鏡要)」にかけ、この名がついたもの〔醒睡笑・大言海〕。

出典:「精選版 日本国語大辞典」

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〇江戸時代の銭湯で、湯船と流し場とを仕切る板戸。湯がさめぬよう、また蒸気が逃げぬように造られたもので、
客は板戸の下の低い入口をくぐって薄暗い湯船へ入る。語源は、室町以降寛永ごろまでザクロの実の汁で鏡をみがいたから、〈かがみ入る〉としゃれたものという。 出典:平凡社「百科事典マイペディア」

〇江戸時代の銭湯で、浴槽の前方上部を覆うように仕切り、客がその下を腰をかがめてくぐり抜けて浴槽に
入るようにした入口のことをいう。湯がさめないように、狭い入口となっているのが特徴で、
明治以降は衛生的でないとして、この形式の銭湯は禁止された。 出典:「ブリタニカ国際大百科事典」

 

江戸の湯屋の見取図 湯屋のビジュアル図

『守貞謾稿』については下記参照。

 

石榴口の入口側 石榴口の湯舟側

 

石榴口。カラー 石榴口。カラー。女湯

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【追記1】

上記に掲載した江戸末期の湯屋(銭湯)の全体図は、『守貞謾稿』(もりさだまんこう)に描かれたもの。

『守貞謾稿』は、喜多川守貞によって書かれた、いわば江戸風俗事典。天保八年(1837年)作。

高座(当時は「番台」と言わなかった)は、女湯の板の間側にある。

男湯の方が見えないので、盗難防止のために、男湯側に見張りを置いた。

寛政の改革後は男女別湯になったにもかかわらず、浴槽だけが男女別で、

脱衣所、洗い場は男女の境がなく、ほとんど混浴同然だった。

 

【追記2】

イラストを見ると勘違いしてしまいますが、こんなに明るくはありません。

現代に暮らす我々は、夜でも照明が有って、昼間同様に明るいのが当り前になっていますが、江戸時代の照明は、行灯あんどんぐらいしか無かった。

従って、湯屋の中は、昼間でも薄明り、夕方以降は相当暗かったと想像すべきです。

石榴口を潜った浴槽周辺は、真っ暗で、人の顔は判別不可能。

仮に男女混浴だったとしても、何も見えなかっただろうと思います。

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【参考】

湯屋(銭湯)がどれくらいあったか?

享和三年(1803年)には江戸市中に499軒、文化五年(1808年)には523軒、さらに文化十一年(1814年)には600軒あったそうです。

因に、内風呂や厠を屋敷内に設けているのは、武家屋敷や大店で、町屋、長屋は銭湯と同じ共同厠。

つい昭和50年頃まで、長屋は、共同風呂、共同便所が珍しくなかった。