日待塚(ひまちづか)/日待塔(ひまちとう)

日待塚

【読む】ひまちづか

日待塔

【読む】ひまちとう

【意味】日待は、朝方まで人が集まって飲食する信仰のこと。その供養の記念として造立した塔が日待塔である。

「日」は太陽のこと、年月日の意味ではない。日の出を待って夜明しをする場合「日待」と呼び、月を拝む場合は「月待」と呼ぶ。

〔日待の詳細〕

村内の仲間の者が集まって、ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する行事。

その期日は土地によって異なるが、正月、五月、九月の十六日とする所や、月の二十三日を重んずる所もある。

なかでも六月二十三日が愛宕権現あたごごんげんや地蔵菩薩ぼさつの縁日で、この日を日待とする所もある。

また、庚申講、こうしんこう二十三夜講やこうの日を日待とする所も、日待講と呼ぶ所もある。
さらに、日待小屋という建物があり、村の各人が費用を持参する例もある。

〔日待、月待、庚申待の違い〕

日待ひまちとは、近隣の仲間が集まって特定の日に徹夜してこもり明かし、日(太陽)の出を拝む行事。正月、五月、九月などに行われる。

月待つきまちとは、陰暦で月の十七日、十九日、二十三日などの夜、月の出るのを待って供物を供え、酒宴を催して月を祭ること。特に、正月、五月、九月の二十三夜が盛大であった。「月祭り」とも言う。

庚申待こうしんまちとは、庚申かえのさるの日、仏家では青面金剛しょうめんこんごうまたは帝釈天たいしゃくてん、神道では猿田彦神さるたひこのかみを祭り、村人や縁者が集まり、徹夜する行事。庚申会こうしんえ

〔眉雪の愚見〕

日待、月待、庚申待は、元々は宗教祭事だったかも知れないが、庶民的民俗行事となった、と思われる。
夏の盆踊り、秋祭り、歌留多会などと同じで、次第に、男女の出会いの場となった。

日待塚、日待塔

【関連】月待塔(つきまちとう)、月待塚(つきまちづか)、庚申塔(こうしんとう)、庚申塚(こうしんづか)

干支(えと、かんし)

干支(かんし、えと)

<Wikipediaより抜粋>

干支は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。
古代チャイナにはじまる暦法上の用語。
暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。
六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。

〔十干と十二支〕

十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、
十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。

〔干支の60回について〕

10と12の最小公倍数は60なので干支は60回で一周するが、干支の組合せはすべての組合せの半数しかない。
例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。
これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。

 

〔日本の「えと」の間違い〕

日本においては「干支」を「えと」と呼んで、「ね、うし、とら、う、たつ・・・」の十二支のみを指すことが多いが、本来、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語である。

「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来する。

すなわち、「えと」の由来は十干であるのに、「ね、うし、とら、う、たつ・・・」と呼んでいるのは十二支で、二重の誤りをしている。

本朝文粋原文 目録/目次

『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)の目録/目次

平安時代後期に編まれた漢詩文集。全14巻。藤原明衡ふじわらのあきひら撰。
嵯峨天皇から後一条天皇までの時代に生きた68人の漢詩文427編を収める。

書名は宋の姚鉉ようげんが編んだ『唐文粋とうもんずい』に依ったものと見られる。

【概要】

公的な文章が漢文で書かれた平安時代において、文章作成の上で模範となるものを編纂した書物。

作品の分類は、

賦、雑詩、詔、勅書、勅答、位記、勅符、官符、意見封事、策問、対冊、論奏、表、奏状、書状、序、詞、行、文、讃、論、銘、記、伝、牒、祝、起請、奉行、禁制、怠状、落書、祭文、呪願、表白、発願、知識、廻文、願文、諷誦文

の39種類に分類されている。

現代風に言えば、『ビジネス文書の基本 文例集』みたいなもので、挨拶文、謝罪文、社内届、始末書なんて分類で模範的な文章を載せたものだ。

分類は『文選』に倣ったものであるが、日本独自の仏教関連の願文や文章・和歌等もあり、日本の社会情勢に適したものに改めている。

収録作品の多くは四六駢儷文しろくべんれいぶんの美文調である。

本書には多くの公文書が使用されている点から、編者の藤原明衡が文章博士もんじょうはかせ東宮博士とうぐうはかせの要職に就いた晩年期の編纂と考えられ、成立年代は康平年間(1058-1065年)と推定されている。

主な作者は、大江匡衡・大江朝綱・菅原文時・紀長谷雄・菅原道真・源順・大江以言・兼明親王・都良香・紀斉名などで、菅原家・大江家の人物が多い。

特に賦の兼明親王「菟裘賦」、慶滋保胤「池亭記」や三善清行「意見十二箇条」、羅泰「鉄槌伝」などは有名である。

本作品には公文書を含めてあらゆる文例が含まれている事から、後世の文学にも大きな影響を与えた。

しかし、江戸時代に至り、駢儷文が不人気になると省みられなくなった。

 

【本朝文粋原文総目次 画像】

読み下し文が掲載されている文献に〇△▢を付けています。

・・新日本文学大系27     岩波書店 1992年出版
・・日本文学大系69      岩波書店 1964年出版
・・本朝文粋抄 後藤昭雄・著 勉励出版 2006年出版

1.巻第一

賦、雑詩

本朝文粋 第一巻 目次

2.巻第二

詔、勅書、勅答、位記、勅符、官符、意見封事

本朝文粋 第二巻 目次

3.巻第三

対冊

本朝文粋 第三巻 目次

4.巻第四

論奏、表上、表下

本朝文粋 第四巻 目次

5.巻第五

表下 對辞状、奏状上

本朝文粋 第五巻 目次

6.巻第六

奏状中

本朝文粋 第六巻 目次

7.巻第七

奏状下、書状

本朝文粋 第七巻 目次

8.巻第八

書序、詩序一

本朝文粋 第八巻 目次

 

9.巻第九

詩序二

本朝文粋 第九巻 目次

10.巻第十

詩序三

本朝文粋 第十巻 目次

11.巻第十一

詩序四、和歌序 付序題

本朝文粋 第十一巻 目次

12.巻第十二

詞(辭)、行、文、讃、論、銘、記、伝、牒、祝文、起請文、奉行文、禁制文、怠状、落書

本朝文粋 第十二巻 目次

13.巻第十三

祭文 在供物、呪願文、表白文、発願文、知識文、廻文、願文上

本朝文粋 第十三巻 目次

14.巻第十四

願文下、諷誦文

本朝文粋 第十四巻 目次

扱帯(しごきおび/しごき)

扱帯/扱き帯

読み:しごきおび

意味:元々は、武家の女性や女児が家の中で着物の裾をお引きずりに着ていて、外出時に裾をたくし上げて、ひもで締めた腰紐が原形。
それが抱え帯とよばれ、扱帯の原型となった。
抱え帯は、懐剣の包みや筥迫(箱セコ:はこせこ)と同じ生地で作られる細い帯状のもの。

帯の下に巻いて、左の後ろ脇で蝶結びにして垂らします。

 

七五三の振袖の各部の名称01七五三の振袖の名称02

 

〇お引きずり ・・・ 着物の裾を引きずるように着ること。また、そのように仕立てた着物。

〇筥迫/箱セコ(はこせこ)・・・江戸時代に奥女中や中流以上の武家の若い娘が持った鼻紙入れ。現在は和服の礼装の際の装飾として使われる。

半紙(はんし)全壊紙(ぜんかいし)半懐紙(はんかいし)

半紙(はんし)、全壊紙(ぜんかいし)、半懐紙(はんかいし)

和紙の規格。大きさによって、3種類に分けられる。

半紙:書道半紙と同じ242x333mm。
全壊紙:363x500mm。
半懐紙:全懐紙の半分で252x363mm。

日本では近世に入ると紙の需要が飛躍的に増大し、各地に和紙の産地が生まれ大量に流通するようになった。
明治時代になり、紙の産地では1904年(明治37年)頃に半紙の生産が急激に落ち込んだ。
1903年(明治36年)から国定教科書が洋紙に切り替えられ、学校教育でも洋紙が急速に普及したためだ。
毛筆は学校ではもっぱら習字の時間に使われるのみとなった。

書道で使用される半紙は 約243x333mm(曲尺で 8寸 × 1尺1寸)であり、この規格が書道・習字の半紙のほぼ全てを占める。

半紙は、杉原紙の寸延判を全紙としてこれを半分にした寸法の紙。
延紙(延べ紙)を半分にした寸法の紙と定義されることもある。

辞書類では延紙(延べ紙)を半分にした寸法と説明されることが多いが、久米康生氏(註1)から延紙の判型は、もともと半紙よりも小さく定義が矛盾していると指摘されており「杉原紙の寸延判」を基準にした再定義がなされている。

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【註解】
註1.久米康夫氏

久米 康生(くめ やすお、1921年3月10日-2015年)は、和紙研究家。

徳島県名西郡石井町生まれ。筆名・芳水康史。1943年東京帝国大学文学部東洋史学科中退。
1989年和紙文化研究会代表、2011年名誉会長。

猪牙舟(ちょきぶね)ちょろ船(ちょろぶね)

猪牙舟

【読み】ちょきぶね

【意味】茶船の一種で、船首を鋭くした水切りのよい軽快な小船。

普通船頭1人で漕ぎ、江戸では吉原通いの山谷船として有名であるが、
その軽便な点を利して小荷運送や磯漁にも使われた。

語源は、船首を猪の牙のように長く突き出しているからの説がある。

関西では「ちょろ」「ちょろ船」という。

 

猪牙舟(ちょきぶね)

茶船(ちゃぶね)

1.猪牙船や荷足船(にたりぶね)に代表されるような小人数の客
や小荷物を運送する小船。
2.港湾や河川で停泊中または航行の船に飲食物を売る小船。にうりぶね。うろうろぶね。
3.投網、ざこ、貝類とりなどの磯漁に使う小船。
4.利根川筋では、薪炭、木材、米穀などを運送した中型の荷船のことで、同じ川筋の
高瀬船や平田船よりも小型なのが特徴。
5.港湾にあって沖がかりしている廻船と陸岸との間を往復して荷物を運送する船で、
瀬取船、上荷船と同様のもの。

ちょろ船(ちょろぶね)

瀬戸内海を中心に、西は北九州から東は紀伊半島・東海道・東京湾の各地で使われていた
小型の和船。長さ7m、肩幅 1.2m程度のもので、船首が箱造になった、2挺櫓の軽快な
船であったというところが多い。

江戸では町奉行所の巡邏(じゅんら)船としても利用され、瀬戸内海の木江(きのえ)港
では女が停泊中の船に乗り込むのにも使っていた。

「ちょろ」とは形の小さいことを意味することばであるという。

唐臼(からうす)

唐臼

読み:からうす/とううす

意味:江戸時代の脱穀具。搗き臼の一種。

臼は地面に固定し、杵をシーソーのような機構の一方につけ、足で片側を踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗く。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用した。踏み臼ともいう。〔wikipedia〕

 

すり臼系統の唐臼は、上臼に取り付けた遣木 (やりき) を数人で回し、籾 (もみ) がらをのぞいて玄米にする。

寛永初年(16世紀前半)にチャイナからもたらされ、従来の木の臼より能率がよく、享保(1716〜36)頃から普及。

つき臼系統の唐臼もあり、これは臼の部分を地面にすえ、杵にあたる部分を足で踏み、脱穀する。

〔出典:旺文社日本史事典〕

 

唐臼(からうす/とううす

 

てこの原理を応用した足踏み式の臼。臼と杵を取付けた棹木(さおぎ)から成り、支点をはさんで棹木の一方の端を踏んで用いる。

日本では平安時代の文献にすでに現れているが、一般に普及したのは江戸時代になってからで、初め米屋などで米の精白に用いられていたものがのちに農家にも広まり、籾ずりなどにも用いられた。

〔出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典〕

ルビとは。ルビの語源。フリガナ。振り假名

漢字の上や右横に、その漢字の読みがなを添える振り假名(フリガナ)ことを、「ルビを振る」と言います。

例えば、

「あのチームは強者つわもの揃いだ」

「『音楽の都』維納ウィーンは、墺太利オーストリアの首都だ」

などですね。

 

さて、この「ルビ」の語源は、何でしょうか。

 

十九世紀の後半、イギリスでは、活字の大きさ(pt/ポイント)の中に宝石で呼ぶものがありました。

4.5ポイント = ダイヤモンド

5.0ポイント = パール

5.5ポイント = ルビー

6.5ポイント = エメラルド

このうちの5.5ポイントが、日本の新聞社で使われていたフリガナの大きさ(7号活字、5.25pt)に近かったので、「ルビ」と呼ぶ様になったとのことです。

 

 

 

檜扇/射干(ひおうぎ)

檜扇/射干

読み:ひおうぎ

意味:細長いヒノキの薄板をとじ連ねて作った扇。

衣冠いかん、または直衣のうしの時、しゃくに代えて持つもので、近世では板の数は、

公卿くぎょうは二十五枚、殿上人てんじょうびとは二十三枚、女子は三十九枚。

男子のものは白木のままとするが、女子のものには幅の広い三重、五重などがあり、

美しく彩色し色糸を長くたらして装飾した。

衵扇(あこめおうぎ)とも言う。

 

檜扇、射干、衵扇

檜扇の画像

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【文中の語彙説明】

○衣冠(いかん) ・・・ 冠を被っていて、昼ならば束帯、夜ならば衣冠。元々、束帯が宮中での勤務服であったが、一日中着るには窮屈だったので、少し緩い衣冠が生まれた。このため、衣冠を「宿直(とのい)装束」、束帯を「昼(ひの)装束」とも呼んだ。

○直衣(のうし) ・・・ 直衣の外見は、衣冠とほぼ同じ。但し、衣冠は身分によって色や模様が決まっていたのに対し、直衣にはそれがない。

○笏(しゃく/こつ) ・・・ 束帯のとき威儀を正すために用いた長さ1尺2寸(約40cm)の板状のもの。礼服着用のときには象牙製、束帯や袍袴(ほうこ)のときには櫟(いちい)製を用いた。

貴族階級の服装に用いられる威儀具。「笏」の漢音「こつ」が「骨」に通(かよ)うのを忌(い)んで、笏の長さ一尺の「尺」を用いて「しゃく」と発音した。もと、儀式の際に備忘のため式次第を書いた紙を笏の裏に貼り、右手に持ったもので、手板(しゅはん)とも称した。

○公卿(くぎょう) ・・・ 公と卿の総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族をいい、あわせて公卿という。

○殿上人(てんじょうびと) ・・・ 天皇の常御殿の清涼(せいりょう)殿に昇殿を許された人。

 

平成天皇の皇太子ご結婚の義