論駁(ろんばく)

論駁

【読み】 ろんばく

【意味】 相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること

【例文1】 二人は、各々、自説を固守して、極力論駁を試みた。(「煙管」芥川竜之介)

【例文2】 衆説論駁して、互いに見る所を執る。(顔師古)

註:例文2は、『佩文韻府』「論駁」の項目に「衆説論駁、互執所見」とあるが、

元々は「衆説舛駁、互執所見」であり、転記間違いと思われる。

 

衆説舛駁し、互いに見る所を執る〔顔師古〕

衆説舛駁し、互いに見る所を執る

【読み】 しゅうせつ せんばくし、たがいに みるところを とる

【原文】 衆説舛駁、互執所見

【出典】 『旧唐書』志二 礼儀二

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【解説】

〇舛駁(せんばく)・・・入りまじって正しくない。また、純粋でないさま。

〇顔師古(がんしこ)
西暦581~645年。享年64歳。男性。
中国、唐の学者。名は籀 (ちゅう) 。字は師古。陝西(せんせい)の人。
祖父の顔之推(がんしすい)をはじめ、一族に学者や高名な書家が多い。
隋の時代、長安で教育に従事し、唐が興ると中書舎人、中書侍郎として詔書の起草などを行なった。
630年太宗の命を受けて五経のテキストの校定を行い、『大唐儀礼』 (100巻) の編纂に加わり、
孔穎達 (こうえいたつ) らと『五経正義』の撰集にあたった。
なかでも『漢書』に施した注が有名。
正議大夫、秘書監を経て弘文館学士に終った。

〇明堂(めいどう)
「明堂」とは、中国古代に帝王がそこで政教を明らかにしたとされる建物。
政治、儀礼、祭祀、教育といった、国家の重要な営みはすべてそこで行われたが、のちにそれらは朝廷、圜丘(えんきゆう:天をまつる壇)、宗廟(そうびよう)、辟雍(へきよう:学校)など
に分化していったといわれる。
『周礼(しゆらい)』や『礼記(らいき)』などの経書に記載されているが、
その具体的な規模についてはよくわからず、古来より経学上の重要な争点の一つであった。

〇旧唐書(くとうじょ)

中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。
二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。

郢客陽春を唱う(えいかくようしゅんをとなう )

郢客陽春を唱う

【読み】えいかく ようしゅん を となう

【意味】卑俗な音曲に馴れている郢の人の間で高尚な(宋の)陽春の曲を歌うこと。

【背景】楚王が宋玉に問うた。「先生はわが都で評価が高くないが、どうしたことか?」

それに対して宋玉は「低俗な曲に馴れている人々が、陽春白雪のような高尚な曲を聴いても理解できない。

鳳凰が飛ぶ眺めを小鳥は知ることもない。

それと同じで、世俗の人々に、どうして私の様な(高尚な)者を理解できるでしょうか」

と答えた。

<俗な解釈>「私の様な高尚な人間を、貴方の国の低俗な人々に理解できるはずがないでしょう」

と、宋玉は楚王に皮肉を言ったのである。

【真意】高雅な者が卑俗の間に受け容れられない(理解されない)たとえ。

【語彙説明】

楚王(そおう)

宋玉(そうぎょく)・・・戦国末期(紀元前3世紀頃)の楚の文人。屈原の弟子とも後輩ともいわれる。

郢(えい)・・・中国、春秋時代の楚の都。
享楽的な都であったと言われており、「俗・みだら」の意に使われることがある。
例:郢曲(えいきょく)①催馬楽・風俗歌・今様など中世・中古の歌謡・流行歌の総称。

②低俗な音楽。俗曲。

陽春・・・「陽春白雪」の略。昔、中国の楚で最も高尚とされた歌曲。

【原文】郢客唱陽春

【出典】宋玉-対楚王問